山県昌景 ~武田軍団最強の赤備えを率いた勇士、武田四天王

山県昌景

桔梗 山県昌景とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 武田最強といわれた赤備えを率いた武田四天王の一人として知られています。

 山県昌景 (やまがた まさかげ)
 生年  1529年(享禄2年)
 没年  1575年(天正3年6月29日)
 改名  飯富源四郎⇒山県昌景
 別名  三郎兵衛尉
 家紋  桔梗
 主君  武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:飯富道悦? 飯富源四郎?
 兄弟  飯富虎昌
 子   昌満 昌久 昌重 信継
     娘(三枝守友室)
     娘(相木昌朝室)
     娘(横田尹松室)
     養子:定昌、太郎右衛門

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武田信玄家臣時代

飯富源四郎

 山県昌景は1529年(享禄2年)に誕生。

 昌景の出自は飯富氏であり、当時の飯富一族は甲斐武田氏に仕えていました。
 武田信虎家臣であった飯富道悦の代である1515年(永正12年)に、大井信達との合戦において道悦の子息である源四郎なる人物が討死。

 この源四郎という名は昌景の仮名と一致するため、昌景や飯富虎昌の父に当たるのでは、と考えられているようです。

信玄に仕える

 昌景は初め武田信玄の近習として仕えました。

 その信玄が信濃侵攻を開始すると、それが昌景にとっての初陣となり、神之峰城攻めでは一番乗りの功名を立て、1552年(天文21年)には侍大将に抜擢されます。

 兄・虎昌も猛将として知られていましたが、昌景もまた戦において目覚しい活躍をし、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたそうです。

 1563年(永禄6年)には三郎兵衛尉を名乗り、その後も戦功を挙げ、300騎持ちの大将として譜代家老衆に列せられました。

 1564年(永禄7年)には飛騨国に侵攻。江馬氏や三木氏を降します。

義信事件

 1565年(永禄8年)、信玄の嫡男・武田義信と、その傅役であった兄・飯富虎昌が信玄に対して謀反を画策。

 昌景は自身の身内が謀反に関わっていることを承知の上で、信玄に密告。
 事件は発覚し、兄・虎昌は捕らえられ、その責任をとって自害したとされています。

 これにより信玄に信頼を得た昌景は、兄・虎昌が率いた武田の精強軍団である赤備えを引継ぎ、その姓を山県の名跡を与えられて、山県昌景と名を改めました。

各地に転戦

 昌景はその後も信玄に従い、西上野侵攻の際には箕輪城攻略戦で功を挙げ、さらには駿河侵攻、および北条氏との戦いにも参加したとされます。

 このように従軍する一方、信玄の側近としても活動していたようで、諸役免許や参陣命令、また自社支配等の武田氏朱印状奏者としての活動がみられ、美濃国の遠山氏や陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏といった遠方の国衆、また松尾小笠原氏や室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など武田家臣衆などの取次ぎを務めていたようです。

 1569年(永禄12年)には駿河国の江尻城代に任命されています。

遠江・三河侵攻

 1571年(元亀2年)、武田信玄は遠江・三河侵攻を開始。

 昌景はこれに従い、山家三方衆(作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏)ら奥三河の国衆を服属。

 菅沼定盈はこれに抵抗するも、定盈の居城であった大野田城を攻略し、敗退させています。

西上作戦

 1572年(元亀3年)、武田信玄は織田信長討伐を目的とした大規模な遠征である西上作戦を開始。

 信玄はまず、山県昌景と秋山虎繁に兵3,000を預け、信長の同盟国であった三河の徳川家康に対して侵攻します。

 昌景は従属した北三河の国人領主でる“山家三方衆”とも呼ばれる田峯城主・菅沼定忠、作手城主・奥平貞勝、長篠城主・菅沼正貞に道案内をさせて浜松方面に進軍。

 井伊谷三人衆の一人であった鈴木重時の柿本城を攻撃し、逃走する重時を討ち果たして更に進軍し、遠江国の伊平城を落として信玄が包囲していた二俣城へと至り、本隊に合流しました。

 その後、三方ヶ原の戦いが徳川家康との間に勃発。
 この時、崩れかかった山県勢を、信玄の子である武田勝頼が助けた、ともいわれています。

信玄の死

 1573年(元亀4年)、武田信玄は西上作戦半ばにして死去。

 昌景は信玄にその死に際し、自身の死を三年隠すことや、跡を継ぐ勝頼を補佐して欲しいと遺命を託されることとなり、馬場信春と共に重臣筆頭として、信玄死後の武田氏を託されました。

 しかし武田勝頼との折り合いは悪かったようで、疎まれたといわれています。

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長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 信玄の死によって西上作戦は頓挫し、武田軍は甲斐へと撤退。

 これにより窮地を脱した織田信長は息を吹き返し、越前の朝倉義景、近江の浅井長政を滅ぼして地盤を固め、また徳川家康も失った三河・遠江の領地回復に努めます。

 その一環として、家康は長篠城を奪還。
 武田勝頼は再び遠江・三河を得るために侵攻を開始し、1575年(天正3年)に長篠城を包囲しました。

 これが織田・徳川連合軍と武田軍の一大合戦となった、長篠の戦いへと至る経緯となったわけです。

 長篠城攻略に手間取る中、織田・徳川の援軍が到着。
 その大軍を前に、昌景や内藤昌豊馬場信春原昌胤、小山田信茂といった重臣が撤退を進言。

 しかし勝頼は長坂光堅跡部勝資といった側近が決戦を主張したことを受けて、決戦を決意を固めたとされています。

 昌景はこの戦いにおいて、軍の中核を担ったとされ、山県勢は一番に攻撃を仕掛けたものの敗退。
 武田勢は総崩れとなり、多大な犠牲を出した上で撤退を余儀なくされました。

 昌景はこの武田勢を退却の際に、織田・徳川勢の追撃戦の中で討死したとされています。享年47。

山県昌景の人物像

 昌景は武田の重臣中の重臣であり、その名は内外に知れ渡っており、武田四天王や武田二十四将の一人としても数えられ、長篠の戦いでの首級の一覧では、その筆頭に上げられていたといいます。

 兄・虎昌から受け継いだ赤備えは山県隊に引き継がれ、その精強さから諸大名に畏怖され、武田軍団の代名詞ともなりました。この赤備えはのちに井伊直政や真田信繁(幸村)に受け継がれることになります。

 武田家中にあって武勇に優れた昌景でしたが、その身体は非常に小柄で、身長は130~140cm程度であったとされ、体重も軽く痩せた小男といった風体の醜男であったともいわれています。

 飯富虎昌の弟とされている一方で、年齢差があることなどから、実は甥ではないか、という説もあるそうです。

山県昌景の逸話

 川中島の戦いにおいて、上杉家猛将・鬼小島弥太郎と一騎打ちをしたことがあり、その最中に信玄の子であった義信が窮地に陥るのをみて、弥太郎に対して勝負を預けたいと申し出たところ弥太郎は快諾し、弥太郎のことを花も実もある勇士と賞賛したとされています。

 信玄の弟であった一条信龍が山県隊の強さを尋ねたところ、戦の心構えについて述べ、いつも初陣のつもりで合戦に臨み、策を練って勝てる確信が無い限りは戦わないからであると、答えたそうです。

 飛騨攻めをした際、一匹の猿に導かれて温泉を見つけ、疲労していた軍の回復させたという言い伝えがあり、これが平湯温泉の開湯であったともいわれています。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
山県昌景  91  96  81  70

 武田家臣団の中でも最強レベルの能力を有しています。
 特に武勇の96はご立派。
 ちょっと名のある程度の大名では敵わないですね……。