土屋昌恒 ~片手千人斬りの異名を残し、天目山に散った忠臣

三つ石 土屋昌恒とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏家臣。
 武田信玄武田勝頼の親子二代に渡って仕え、武田氏の滅亡である甲州征伐の際は最後まで主君・勝頼に同行し、天目山の戦いで奮戦。討死しました。

 土屋昌恒(つちや まさつね)
 生年  1556年(弘治2年)?
 没年  1582年(天正10年3月11日)
 改名  惣蔵(幼名)⇒昌恒
 別名  道節
 家紋  三つ石(みついし)
 主君  武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:金丸筑前守(虎義)
     養父:土屋貞綱
 兄弟  昌直 昌続 昌詮
     金丸定光 秋山親久
 妻   岡部元信の娘
 子   忠直
     婿:土屋嘉兵衛(重虎)

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来歴

土屋氏

 生年ははっきりとは分かってはいないものの、1556年(弘治2年)頃に生まれたとされています。

 父親は金丸筑前守で、その次男であった昌続は1561年(永禄4年)に行われた川中島の戦い以降に、土屋氏の名跡を与えられたといわれています。

 また今川氏旧臣であった、武田海賊衆の土屋貞綱(岡部氏出身)の養子となっていましたが、1575年(天正3年)に行われた長篠の戦いにて兄・昌続及び養父・貞綱が戦死したことにより、両人の家臣を昌恒は率いるようになりました。

 昌恒は勝頼に従って、東海方面や関東方面での戦に参加していたようです。

天目山の戦い

天目山の戦い
『天目山勝頼討死図』

 1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍により、甲州征伐が開始。

 両軍の侵攻に対し、武田方は組織だった抵抗もできず、次々に寝返りが発生し、武田氏は追い詰められていくことになります。

 そんな中、昌恒は主君・武田勝頼に最後まで従いました。

 勝頼は居城であった新府城を放棄し、小山田信茂を頼って敗走を続ける途中、信茂が離反して進退窮まります。

 この時、勝頼の側近であった跡部勝資は動揺したとされていますが、昌恒はこれを非難したといわれています。

 そして勝頼一行が天目山に追い詰められると、勝頼が自刃する時間を稼ぐため、織田軍と戦い討死しました。

 その際の昌恒は、「片手千人斬り」という異名を残すほどの活躍をしたといいます。

その後の土屋氏

 武田氏滅亡の際、子の土屋忠直は母と共に脱出。

 その後、甲斐国や信濃国は天正壬午の乱にて混乱するも、最終的に徳川家康が領し、その家康の召し出しを受けて家臣となり、1602年(慶長7年)には上総久留里藩の初代藩主となっています。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
土屋昌恒  52  71  40  26

 最後の奮闘振りが評価されてか、武勇は高め。
 政治はからきし。
 滅亡する最期の瞬間まで、忠臣という存在があったことを教えてくれる人物です。