徳川家康(松平元康)~江戸幕府初代征夷大将軍にして三英傑

徳川家康

丸に三つ葉葵(徳川葵) 徳川家康とは戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名であり、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた人物です。
 織田信長、豊臣秀吉に並ぶ三英傑の一人としても知られています。
 かつての主君であった今川義元に続いて、海道一の弓取りとも呼ばれました。

 徳川家康(とくがわ いえやす)
 /松平元康(まつだいら もとやす)
 生年  1543年(天文11年12月26日)
 没年  1616年(元和2年4月17日)
 改名  松平竹千代(幼名)⇒元信
     →元康⇒家康⇒徳川家康
 別名  大御所 神君
 家紋  丸に三つ葉葵(徳川葵)
 主君  今川義元⇒氏真⇒足利義昭
     ⇒織田信長⇒豊臣秀吉
 親   父:松平広忠 母:於大の方
 兄弟  松平家元 内藤信成
     樵臆恵最 市場姫
     異父弟:松平康元 松平康俊 
         松平定勝
 妻   正室:築山殿
     継室:朝日姫
     側室:養珠院 西郷局 
        茶阿局 英勝院
        雲光院 相応院 他
 子   松平信康 亀姫 結城秀康
     督姫 徳川秀忠 松平忠吉
     振姫 武田信吉 松平忠輝
     徳川義直 徳川頼宣
     徳川頼房 他

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略歴

 徳川家康はその幼少期を織田氏や今川氏の人質として過ごし、のちに今川氏の家臣として今川義元やその子の今川氏真に仕えました。

 転機が訪れたのは1560年(永禄3年)に起きた桶狭間の戦いであり、この時に今川義元が討死したことを受けて、今川氏より独立を図り、その際に織田信長と同盟。三河国や遠江国の戦国大名となります。

 その後、1582年(天正10年)に本能寺の変が勃発し、織田信長が横死。

 この混乱による天正壬午の乱を経て、武田氏の旧領であった甲斐国や信濃国まで版図を広げることになります。

 信長が没した後は、その家臣であった豊臣秀吉が台頭し、これと対立。
 小牧・長久手の戦いを経て秀吉に臣従し、その家臣となりました。

 秀吉が行った小田原征伐の後は、北条氏の旧領であった関東へと転封となり、広大な領地を手に入れ、豊臣政権下においては五大老筆頭となります。

 秀吉が没した後は、1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍に勝利。

 1603年(慶長8年)には征夷大将軍となって、江戸に幕府を開きました。

 そして1615年(慶長20年)、豊臣氏を大坂の陣によって滅亡させ、100年以上に渡って続いた戦国時代に終止符を打つことになりました。

 また家康が築いた江戸幕府による体制は、その後250年以上に渡って続くことになります。

幼少期と今川氏家臣時代

松平氏

 徳川家康は三河国の土豪であった、松平広忠の嫡男として 1543年(天文11年12月26日)に岡崎城にて生まれました。

 母親は水野忠政の娘・於大(伝通院)。

 幼名を竹千代と名乗りました。

 家康が3歳の頃に、母・於大の兄であった水野信元が尾張国の織田氏と同盟。

 この頃の松平氏は駿河国の今川氏に庇護されており、その今川氏は織田氏と敵対していたため、父・広忠は於大を離縁することになります。

織田氏の人質として

 1547年(天文16年)、6歳となった家康は人質として今川氏の駿府へと送られることになりました。

 ところがその道中、田原城において戸田康光が裏切り、その身柄は織田氏当主であった、織田信秀の元へと送られるという事件が発生します。

 しかし父・広忠は家康を織田氏に人質に取られながらも今川氏に臣従し続け、家康はそれから約二年間、尾張の加藤順盛のもとに留め置かれたとされています。

 この際に信秀の嫡男・織田信長と知り合ったという伝説がある一方、確かな史料は存在していません。

父・広忠の死

 1549年(天文18年)、家康の父親であった松平広忠が死去。

 広忠の死因には諸説あり、病死であったとか、岩松八弥(片目弥八)によって殺害されたとか、一揆によって殺害されたとか複数存在しており、確かではないようです。

 その後、今川氏当主であった今川義元は、配下の太原雪斎率いる今川・松平連合軍に安祥城を攻めさせ、その守備を任されていた織田信秀の庶長子であった織田信広(信長の庶兄)を第四次安城合戦によって生け捕りにすることに成功し、家康と信広の人質交換が成立。
 家康は今川氏へと返還されることとなりました。

 しかし松平氏の居城であった岡崎城には今川氏より城代が派遣され、家康はこれに戻ることは叶わず、駿府にて1555年(天文24年)に元服。
 今川義元から一字をもらい、名を次郎三郎元信として、今川義元の姪にあたり、関口親永の娘であった瀬名(築山殿)を娶りました。

 その後、名を祖父・松平清康から一字をもらい、元康と改めることになります。

 1558年(永禄元年)には織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を初陣にて破り、戦功を挙げました。

桶狭間の戦いと独立、三河統一まで

桶狭間の戦い
『尾州桶狭間合戦』

今川義元の死

 1560年(永禄3年)、今川義元は織田氏の尾張国へと侵攻。
 いわゆる桶狭間の戦いが勃発します。

 この時家康は先鋒を任され、大高城への兵糧補給の任に当たっていました。

 しかし大高城は織田軍の包囲の中にあり、家康は鷲津砦と丸根砦の間を突破して兵糧補給に成功。
 更には丸根の砦を攻め落とすことにも成功します。

 こうして大高城に入った家康でしたが、桶狭間において義元が織田信長の急襲を受け、戦死するとの報が伝わると、大高城から撤退し、大樹寺へと入った上で自害を決意。

 しかし住職であった登誉天室に諭されて翻意し、今川軍が放棄していった岡崎城へと入城。

 以後、独自に軍事行動をとって今川氏からの独立を画策しました。

三河国での独立

 1561年(永禄4年)には室町幕府との関係を築き、三河国での地位を認めてもらうように動きます。

 また一方で軍事行動も起こし、東三河の牛久保城を攻めて今川氏との敵対を明確にしました。

 当時の今川氏には武田氏や北条氏といった盟友が存在していましたが、両者とも上杉謙信の関東出兵の対応で手が放せず、今川氏にとっては家康への対応に窮する結果となってしまいます。

清洲同盟

 1562年(永禄5年)、家康は今川氏と完全に断交し、尾張の織田信長と同盟を結びました。

 これはかつて織田氏へ通じた伯父の水野信元の仲介もあり実現したもので、いわゆる清洲同盟と呼ばれるものです。

 一方で室町幕府将軍・足利義輝や北条氏当主・北条氏康は家康と今川氏の関係修復を図りましたが、実現には至りませんでした。

 そして家康は、かつて今川義元からもらった一字である「元」の字を捨て、家康と改名することになります。

三河一向一揆

三河一向一揆
『大樹寺御難戦之図』

 1564年(永禄7年)、三河一向一揆が勃発。

 これは蓮如の孫である本證寺第十代・空誓が浄土真宗本願寺派門徒に檄を飛ばして始まったもので、家康の三大危機の一つとされるほど、家康を窮地に追い込むものでした。

 三河家臣団の半数が門徒方に与し、内紛の様相を呈することになったといわれています。

 この時、一向一揆側についた家康の家臣として、本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長、加藤教明などが挙げられます。

 この一揆に対し家康は苦戦するものの、馬頭原合戦において勝利。
 これを機に和議を図り、一揆の解体に成功しました。

 この時一揆側について離反した武士も、多くが帰参を望み、家康も寛大な処置で臨みました。

 ただ本多正信のように一揆鎮圧後に出奔し、10年以上流浪したのちに帰参して、家康に再び仕えた人物もいます。

 ともあれ三河一向一揆を収めた後は、再び対今川氏の戦略を進め、徐々に敵対勢力を排除し、三河国統一を果たしました。

徳川姓を名乗る

 1566年(永禄9年)になると、朝廷より三河守の叙任を受けて、姓を徳川に改めます。

 家康の出自である松平氏は、新田氏支流世良田氏系統の清和源氏を自称していました。

 ところが時の天皇であった正親町天皇により、「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例はない」と三河守叙任を拒否されてしまいます。

 そのため家康は公家の近衛前久に相談し、松平氏の祖である世良田義季が得川氏を名乗ったことがあるという文献の存在と、またその得川氏が藤原姓を名乗ったことがあると主張した上で、家康個人を得川=徳川氏に復姓する、という奇策を考案。

 こういった措置をした上で、家康は従五位下三河守に叙任されることができた、といわれています。

今川氏の滅亡

 1568年(永禄11年)、今川氏のかつての盟友であった甲斐武田氏当主・武田信玄は、両者の関係が手切れとなったことを受けて、駿河に侵攻を開始しました。

 これに同調した家康は、遠江割譲を条件に信玄と同盟を結び、遠江国へと侵攻。
 曳馬城を攻め落とします。

 この武田氏との同盟の条件となった今川領分割において、大井川より東を武田に、西を徳川に、とする協定が結ばれていました。

 しかし1569年(永禄12年)、武田氏家臣であった秋山信友の遠江国侵攻により、協定は破られて手切れとなり、敵対関係となっていきます。

 今川氏の当主・今川氏真は駿府より掛川城へと本拠を移し、徹底抗戦の構えをみせ、家康はこれを包囲するも容易に攻め落とせず、氏真と和睦して開城させ、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡しました。

 駿河より侵攻していた武田軍に対しては、相模の北条氏康の協力を得た上で撃退に至らしめます。

 当時、徳川氏と同盟関係のあった織田氏は武田氏とも同盟関係であり、徳川氏と武田氏は敵対関係、という関係になっていました。

 そ1570年(元亀元年)、家康は岡崎から曳馬に本拠を移し、この地を浜松と改名した上で、浜松城を築城。
 これを本拠としました。

 またこの年、同盟国であった織田信長に協力して越前朝倉氏攻めに参加して、金ヶ崎の戦いに参戦。

 浅井氏の裏切りもあってこれに敗退するも、のちに行われた朝倉義景浅井長政による連合軍と姉川において戦い、戦果を挙げました。

武田氏との攻防

武田信玄の西上作戦

 1571年(元亀2年)、家康と敵対していた武田氏は、北条氏との同盟を回復し、駿河の今川氏の旧領を確保。

 またこの時、一度は織田信長の協力を得て上洛を果たした将軍・足利義昭が、信長と反目し、武田氏、朝倉氏、浅井氏、石山本願寺といった反信長勢力を糾合して信長包囲網を作り上げ、織田氏を窮地に陥れます。

 この際に家康に対しても、副将軍への就任を条件に協力を要請。
 しかし家康はこれを無視し、信長との同盟関係を継続しました。

 1572年(元亀3年)、武田信玄による西上作戦が開始。
 手始めに徳川領であった三河や遠江への侵攻が始まります。

 これによって、それまで同盟関係にあった織田氏、武田氏は手切れとなって、敵対関係になりました。

 武田軍の侵攻を前に、家康は信長へと援軍を要請。
 しかし信長は包囲網により身動きできなくなった上に、武田軍に美濃岩村城を攻撃されたこともあって十分な援軍派遣が叶わず、家康は単独にて信玄と戦わざるを得なくなります。。

一言坂・二俣城の戦い

 遠江へと侵攻してきた武田軍を迎撃するため、家康は天竜川を渡って見附に進出。
 浜松城の防御の要となる要衝であった二俣城を守るべく、徳川軍が威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、戦闘となりました。

 この一言坂の戦いに徳川軍は大敗を喫しし、以後、徳川軍は劣勢にたたされます。

 徳川軍にとって二俣城は絶対に守り通さなければならない要地であるのと同時に、武田軍にとっては必ず落とさなければならない城でもありました。

 二俣城は堅城であり、城将・中根正照がよく守り、武田軍は攻めあぐねます。

 そこで信玄は力攻めをやめ、水の手を絶つ方法によりこれを攻略。
 水の手を立たれた二俣城は支えきれずに陥落し、信玄の次なる標的は家康の居城であった、浜松城となったのです。

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い
『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』

 ここで信長より援軍として佐久間信盛、平手汎秀が到着。
 浜松城へと武田軍が迫る中、家康は籠城か迎撃かの決断を迫られることとなります。

 ところがここで武田軍は浜松城を素通りして、三河へと転進する動きをみせたため、家康は籠城を唱える佐久間信盛らに反して討って出、武田軍を追撃。

 しかし三方ヶ原台地にて武田軍に待ち伏せされた徳川軍は散々に打ち負かされ、大敗を喫しました。

 この時の武田軍の死傷者は200名ほどに対し、徳川軍の死傷者2,000名にのぼり、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真や中根正照、青木貞治などの他に、家康の身代わりとなった夏目吉信(明治の文豪・夏目漱石の祖)や鈴木久三郎といった家臣の他に、信長配下であった平手汎秀などが戦死するに至りました。

 武田軍の思惑に完全にはまった徳川軍ではあったものの、戦闘開始時刻が遅かったことや、本多忠勝といった猛将の防戦もあって、家康は命からがらではあったものの、浜松城へと落ち延びることになります。

 この敗走は後の伊賀越えなどに並んで、人生最大の危機であったとされています。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』

 浜松城へと戻った家康は空城の計を用い、追撃してきた山県昌景の警戒心を煽って退却せしめました。

 その後、一矢報いるべく家康は大久保忠世と天野康景に命じ、犀ヶ崖にて夜営をしていた武田軍を夜襲。
 これにより武田軍は混乱し、多数の死傷者が出たとされていますが、その内容は真実味に欠ける荒唐無稽な逸話であり、史実であるかどうかは疑問の余地が大いにありそうです。

信玄の死

 武田軍は三河への侵攻を開始し、三河設楽郡の野田城が陥落。
 しかしその後、信玄が発病。
 これにより武田軍は長篠城へと退き、信玄が死去したことで撤兵へと至りました。

 信玄の死去によって、西上作戦は頓挫。

 窮地から救われた信長は信長包囲網を次々に撃破し、家康もまた武田軍に奪われた領地を奪還し、駿河の武田領まで脅かしました。

 これに対し、信玄の後を継いだ武田勝頼も攻勢に出、東美濃の明智城、遠江高天神城など攻略され、家康は武田氏との攻防を繰り返すことになります。

長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 そして1575年(天正3年)、武田勝頼は大軍を率いて三河へと侵攻を開始。
 長篠城を包囲しました。

 長篠城攻城戦において、寡兵であったものの長篠城はよく守り、織田軍の到着まで城を守り通します。

 織田信長自らの出陣を知って、武田方の山県昌景、馬場信春内藤昌豊らは勝頼に撤退を進言したとされますが、結局決戦に至り、織田・徳川連合軍の圧勝に終わりました。

 武田方は多くの家臣を失い劣勢となり、家康は戦勝に乗じてかつて奪われた光明・犬居・二俣城を攻略。
 さらには諏訪原城を奪取したことで高天神城への大井川沿いの補給路を封じ、以後の戦いを有利にすることができました。

 また家康は長篠城を守り抜いた城主・奥平貞昌を賞賛し、名刀・大般若長光を授け、さらには自身の長女であった亀姫を正室とさせて賞したといわれています。

信康自刃事件

 1578年(天正6年)、家康の嫡男・信康に対し、武田氏の内通疑惑が持ち上がります。

 家康は酒井忠次を使者として信長のもとに派遣。
 信長からの詰問に対し、忠次は概ね認めたこともあり、信康へと切腹が通達されました。

 この事態に家康は熟慮し、信長との同盟継続を選択。
 信康と共に内通疑惑のあった正室の築山殿を殺害し、信康には切腹させたといわれています。

 ただしこの通説に対しては疑問もあり、もともと家康と信康の対立関係が背景にあった可能性も指摘されているようです。

高天神城の戦い

 武田氏は織田氏との関係回復を模索するものの、信長はこれを黙殺し、1580年(天正8年)には家康が5,000の軍勢を率いて
高天神城奪回を図り、兵糧攻めを行いました。

 この時の城将は岡部元信であり、元信は勝頼へと救援依頼を出したものの、勝頼は元信へと援軍を送ることができなかったといわれています。

 信長はこの城攻めにあたって降伏を許さぬようにとの書状を送っており、これは勝頼が高天神城を見殺しにすることで武田の威信失墜を狙ったと思われます。

 この兵糧攻めにより、城兵の大半が餓死し、ついに武田軍は城を討って出、これを迎え撃った徳川軍は岡部元信をはじめ兵688の首を討ち取って、高天神城を奪回しました。

 この時、岡部元信らを見殺しにしたことは、武田の一門衆であった木曾義昌や穴山信君、譜代家老の小山田信茂らの造反の原因になった可能性があるようです。

武田氏滅亡

 1582年(天正10年)、木曾義昌の調略をきっかけにして、織田・徳川連合軍は武田領への侵攻を開始。
 いわゆる甲州征伐が始まります。

 織田軍は信濃方面から、徳川軍は駿河方面から侵攻。
 駿河江尻領主の穴山信君を離反させるなどして、駿河の確保に成功しました。

 そして天目山の戦いを最後に、勝頼は嫡子の信勝と共に自刃。
 ここに武田氏は滅亡しました。

 この戦功によって家康は駿河を与えられ、駿府にて信長を接待したと伝わっています。

 またこの頃までに、かつて三河一向一揆にて出奔していた本多正信が帰参したともいわれています。

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天正壬午の乱

本能寺の変と神君伊賀越え

 1582年(天正10年)、家康は駿河拝領の礼のために、安土城を訪れます。

 その後、本能寺の変が勃発。

 織田信長が本能寺にて明智光秀に討たれて横死し、この時家康は堺におり、僅かな供回りの者しかいなかったこともあって、非常に危険な状態となりました。

 ために信長の後を追おうとしたともされていますが、本多忠勝に説得されて思い直し、服部半蔵の進言によって伊賀国の山道を越え、伊勢国から海路で三河へと戻る道を選択し、辛うじて帰国できたといわれています。

 この時の随行者は僅か34名であり、家康はもちろん徳川四天王と呼ばれる重鎮が揃い踏みで、もし明智勢などに襲われて何らかの損害を被っていたとしたら、例え家康本人が無事であったとしても、のちの徳川への打撃は非常に大きなものになっていたと考えられます。

 ちなみに当初同行していた穴山信君一行は、家康から遅れて移動していたところを一揆に襲われて死亡、もしくは切腹したといわれています。

 窮地を脱した家康は、逆臣となった明智光秀を討つべく軍勢を整え、尾張まで進出。

 しかしこの時にはすでに、中国大返しにより帰還した羽柴秀吉によって光秀は討たれた後でした。

信濃・甲斐国の混乱

 信長の横死は、滅亡したばかりの武田氏の旧領であった甲斐国や信濃国において、大量の一揆を誘発することになりました。

 また領地を接する越後の上杉氏や相模の北条氏などが、この機に乗じて旧武田領への侵攻を図ります。

 この時、武田の旧領の中で信濃国の小県郡・佐久郡や上野国の支配を担っていたが、織田氏家臣であった滝川一益でした。

 しかし一益がこの地を治めるようになってから、僅か三ヶ月程度しかたっておらず、完全な統治には程遠い状況で、なおかつ軍の編成も未だにすんでいない状況だったため、相次ぐ一揆の勃発により、一益配下の森長可と毛利秀頼は信濃国を捨てて畿内へと敗走。

 また甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は、一揆勢と戦い討死するなど、状況は緊迫します。

 そこに織田氏と同盟関係のあった北条氏が関係を破棄して、武蔵・上野国境に襲来。

 北条氏直率いる6万の軍勢に対し、滝川一益はこれを迎撃し、緒戦は勝利を収めましたが、結果的に敗北し、領地を捨てて尾張への撤退を余儀なくされました。

 これによりいったん織田氏によって統治された武田旧領である甲斐・信濃・上野が空白地帯となり、家康はこの機に乗じて甲斐へと侵攻します。

 他に上杉景勝や北条氏直も侵攻を開始し、さらには武田氏の旧臣であった真田昌幸らも加わった広範囲による戦役が発生。
 いわゆる天正壬午の乱が勃発することとなりました。

 北条氏直は北条氏規や北条氏照を率いて碓氷峠を越え、信濃に侵攻し、川中島にて上杉軍と対峙。

 両者は和睦後、北条軍は南に転進し、甲斐へと侵攻していた家康と対峙することとなります。

 これにより徳川軍と北条軍の全面対決となるところだったのですが、滝川一益から北条氏に主君を代えていた真田昌幸が調略を受けて家康へと寝返り、そのゲリラ的な戦術に苦戦した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康と和睦。

 この時の条件として上野を北条氏が、甲斐・信濃を徳川が領するというもので、さらに家康の次女であった督姫が氏直に嫁ぐ、というもので、徳川氏と北条氏は縁戚関係となった上で、従来の領地である駿河・遠江・三河に加え、武田氏旧領の甲斐・信濃を合わせて五ヶ国を領する大大名となるに至りました。

豊臣秀吉との対立と臣従

小牧・長久手の戦い

 本能寺の変により織田信長が死去した後、織田氏ではその家臣であった羽柴秀吉が台頭。

 信長を討った明智光秀を破ったことで発言力を増し、信長の次男であった織田信雄と結んだ上で、対立した織田家臣・柴田勝家を1583年(天正11年)に賤ヶ岳の戦いで撃破し、その影響力を強めていきます。

 しかしいったん秀吉と手を結んだ織田信雄でしたが、秀吉は賤ヶ岳の戦い以後は信長の孫であった・三法師(織田秀信)を擁立したことで、次第にこれと対立。

 信雄はかつて徳川氏と北条氏の間を仲裁しており、その縁もあって家康に接近すると、両者は協力して秀吉に対抗するようになります。

 1584年(天正12年)、信雄が秀吉に通じた家老を粛清したことで合戦が勃発。
 家康は尾張へと出兵し、信雄と合流し、家康の家臣であった酒井忠次が森長可を羽黒の戦いで破った上で、家康は尾張国の小牧山へと陣をひくに至りました。

 一方、秀吉方は尾張国の犬山城を陥落させた上で、森長可や池田恒興が三河国へと侵攻。

 長久手において羽柴軍と徳川軍は決選に至り、家康は森長可と池田恒興を破り、これを敗死させました。
 これがいわゆる小牧・長久手の戦いと呼ばれるもので、家康が天下をとった決戦を挙げて、「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり。関ヶ原にあらずして小牧にあり」といわれるほど、家康にとって天下への道標となった契機であったともされています。

 その後半年以上経過して、秀吉は自身への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾。
 信雄が単独講和をしたこともあり、家康は戦の大義名分を消失し、三河へと帰国しました。

 秀吉は次に家康との講和を試み、滝川雄利を浜松城へと派遣。
 家康はこれを受け、次男であった於義丸こと後の結城秀康を秀吉の養子し、大坂へと送ることになります。

 これをもって、小牧役は終わりました。

 この際、秀吉と対立していた佐々成政が雪の立山を越えて家康のもとを訪れたというさらさら越えをしたといわれており、秀吉へと対抗を訴えたものの、家康はこれを受け入れなかったとされています。

 またこの小牧役に終結により、秀吉は天下人への階段を駆け上っていくことになるのです。

第一次上田合戦

 秀吉は1585年(天正13年)には関白に叙任。
 これにより豊臣政権を確立します。

 対して家康は五ヶ国を領有する有力大名であり、関東の北条氏との同盟関係をもってこれに対抗しましたが、かつて北条氏と和睦した際の条件の中に上野国の沼田の割譲を約束しており、そのことがその地を領していた真田氏との対立を深め、真田昌幸は徳川方から離反して上杉、そして秀吉へと鞍替えし、家康に抵抗。

 家康は真田氏の離反を知って、真田討伐の軍を起こし、配下の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らに兵7,000を与えて真田氏の本拠地である上田城へと派兵しました。

 これがいわゆる神川合戦、もしくは上田・神川の合戦とも呼ばれる、いわゆる第一次上田合戦であり、徳川軍は真田昌幸の用兵の前に敗北。

 さらに徳川譜代の重臣であった石川数正が豊臣方に出奔するなどの事件を受けて、完全撤退するに至りました。

 この戦いで真田昌幸の評価が高まり、家康は真田氏の懐柔を選択し、家臣であった本多忠勝の娘である小松姫を家康の養女とした上で昌幸の嫡男・真田信之へと嫁がせることとなります。

徳川領での疲弊

 家康は豊臣政権との対立を続けましたが、1583年(天正11年)から1584年(天正12年)にかけて地震や大雨に見舞われて、家康の領地も大きな被害を受けていました。

 国内が天災にあって乱れる中、豊臣政権との対決は徳川氏の領国への打撃を深刻にし、その継続を困難にします。

 そのため家康はまず国内の建て直しをせざるを得ず、徐々に劣勢にたたされていくことになりました。

 そんな中、秀吉は家康に対して臣従を求め、、更に人質を要求。
 徳川家中も酒井忠次や本多忠勝といった、豊臣政権への強硬派と、石川数正ら融和派とに分裂していくことになります。

 そして重臣・石川数正が秀吉方に帰属するに至り、徳川の内情は筒抜けとなってしまい、家康はこれまでの軍制を刷新してかつての武田軍のものを取り入れ、改革を行わざるを得ませんでした。

 1586年(天正14年)、秀吉は家康の懐柔のために実妹である朝日姫を正室として差し出し、家康がこれを迎えたことで秀吉と義兄弟という関係になります

 これでも臣従しない家康に対し、秀吉はついに自身の生母であった大政所までもを送り、これを受けて家康も拒み続けることができず、上洛に至りました。

 家康が大坂城にて秀吉に謁見する前夜、秀吉本人が密かに家康のもとを訪れ、改めて臣従を求めたとされ、翌日に行われた謁見において、諸大名の前で家康は豊臣政権への臣従を表明。

 その際に、秀吉の陣羽織を所望し、秀吉が今後合戦の指揮をとるようなことはさせないという意味を込めて、忠誠を誓ったとされています。

小田原征伐

 1586年(天正14年)、家康は正三位に叙任。

 その年には秀吉の生母である大政所を、秀吉のもとへと送り返しました。

 翌年の1587年(天正15年)には、従二位・権大納言に叙任。

 またこの頃、豊臣政権に従っていなかった北条氏に対し、家康は北条氏と縁戚関係にあることから北条氏政・氏直親子へと秀吉への恭順を促す起請文を送っています。

 これにより、氏政の弟であった北条氏規を上洛させるなどの成果を挙げる一方、氏直自身は豊臣政権への臣従を拒否。

 1590年(天正18年)には、家康は事実上の嫡男であった三男・秀忠を人質として上洛させ、臣従の意思を明確にしたことで、北条氏と断交。

 さらには積年の問題であった沼田城問題から端を発した、北条氏による真田氏の名胡桃城侵攻を契機に、秀吉は北条攻めの意思を固め、いわゆる小田原征伐に至ることとなります。

 家康は豊臣軍の先鋒を務め、小田原城を包囲。

 結果、北条氏は降伏してここに後北条氏は滅亡しました。

 戦後、家康は領有していた駿河国、遠江国、三河国、甲斐国、信濃国の五ヶ国を秀吉に召し上げられ、北条氏の旧領であった武蔵国、伊豆国、相模国、上野国、上総国、下総国、下野国の一部、常陸国の一部といった関八州に移封されることになります。

 これにより、家康は従来の150万石から250万石へと大幅加増されることになりました。

 この移封については、数字上では大幅加増であったものの、関東は北条氏の残党により治安が安定しているとはいえず、また北条氏が四公六民という低い税制を用いていたこともあって、石高ほどの税収は見込めない状況であり、何より家康にとって縁の深い三河国を失う結果となり、決して良い状況になったとはいえませんでした。

 これについては秀吉の家康に対する冷遇策か、それとも優遇策であったのか、その議論は現在も続いているようです。

 ともあれ関東に移った家康は、小田原ではなく江戸に本拠を構え、武蔵国の江戸城を居城としました。

秀吉死去まで

 1591年(天正19年)、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため、豊臣秀次を総大将とした奥州仕置軍を編成。
 家康もこれに加わり、各種一揆鎮圧に貢献します。

 1592年(文禄元年)、朝鮮出兵が開始。
 家康も出兵しましたが、朝鮮に渡ることなく名護屋城に布陣するに留まりました。

 1595年(文禄4年)には、豊臣氏第2代目関白であった豊臣秀次が高野山にて切腹となった、いわゆる秀次事件が発生。

 これは豊臣政権を揺るがす大事件であり、事態の鎮静化のために家康も諸大名らと共に上洛し、伏見城にて豊臣政権の中枢に身を置くようになります。

 1596年(慶長元年)には内大臣に任命。
 これにより家康は内府と呼ばれるようになります。

 1597年(慶長2年)、再度の朝鮮出兵である慶長の役が開始。
 家康はこの役でも渡海することはありませんでした。

 1598年(慶長3年)、秀吉が病に倒れます。
 これにより五大老、五奉行制を定めて秀吉の後継者たる豊臣秀頼の補佐とし、家康は五大老の一人に就任しました。

 同年に秀吉が死去。
 これを受けて家康ら五大老や五奉行は朝鮮撤兵を決め、撤退に至ります。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い
『関ヶ原合戦図屏風』

五大老筆頭として

 家康は秀吉より遺言を受け、秀頼が成人するまでの政事を任されたこともあって、五大老筆頭の地位を固めました。

 その上で、かつて秀吉に禁止されていた大名家同士の婚姻を積極的に行うようになります。

 また細川忠興や島津義弘、増田長盛らと頻繁に接触するようにもなり、こういった家康に行動に対して他の大老の一人であった前田利家や、五奉行の一人であった石田三成の反感を買い、1599年(慶長4年)には家康へと三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されるに至りました。

 しかし家康はこれを恫喝して追い返し、その上で家康は利家と誓書を交わすなどして和解することになります。

石田三成襲撃事件

 大老・前田利家が死去すると、石田三成と対立していた加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件は発生。

 事前に事を察知していた三成は難を逃れ、大坂を脱出して伏見城へと入り、家康はこれを仲裁して和談が成立。

 三成は五奉行から退き、家康の次男であった結城秀康に守られて佐和山城へと蟄居し、豊臣政権内で失脚することとなりました。

 この三成襲撃事件の際、三成は対立関係にあった家康の屋敷に単身逃れ、難を逃れたという逸話があるのですが、江戸期に成立した史料にこのようなことを示すものはないようです。

 この事件により、豊臣政権内での家康の影響力と評価が高まり、さらには三成が生きながらえたことで政権内での豊臣家臣同士の対立が継続され、のちの関ヶ原へと繋がっていくことになります。

天下分け目の決戦

 1600年(慶長5年)、越後国を治めていた堀秀治らより、会津の上杉景勝に不穏な動きがあるという報告を受け、さらには上杉家家臣であった藤田信吉が出奔し、江戸にいた徳川秀忠へと上杉氏に叛意ありと伝えるなどといった事件が起きます。

 これを受け家康は、上杉景勝へと問罪使を派遣。
 これに対し、上杉氏重臣であった直江兼続による返書、いわゆる直江状により家康は激怒。
 会津征伐が開始されます。

 この時に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石が下賜され、朝廷と豊臣家から大儀名分を得た家康は、大坂城より出陣。
 しかし家康は、その後ゆっくりとした進軍に留まったとされています。

 この遅すぎる進軍は、家康と対立していた石田三成らの挙兵を待っていたという説もあるようで、実際に家康の会津征伐出征を狙い、石田三成は盟友の大谷吉継らと共に挙兵。
 家康に占拠されていた大坂城の西の丸を奪還し、増田長盛、長束正家といった奉行衆を説得。
 さらには五大老の一人であった毛利輝元を総大将として、家康への13ヶ条に渡る弾劾状を諸大名に公布しました。

 まず攻められたのが徳川方の城であった伏見城であり、そこを守っていた家康家臣の鳥居元忠は4万の兵に攻められ、玉砕して果てます。

 これに勢いを得た三成は、伊勢や美濃方面に侵攻。

 三成挙兵の報を聞いた家康は、下野国の小山において重臣達と協議し、従軍していた諸大名へと三成を討つため反転することを告げました。

 これがいわゆる小山評定であり、三成に反感を持っていた福島正則といった武断派の大名らは次々に家康への味方を表明し、家康を総大将とした東軍が結成されることとなります。

 東軍約10万のうち、嫡男・徳川秀忠を大将とした徳川本隊は、榊原康政、大久保忠隣、本多正信らと共に中山道を進軍。

 次男・結城秀康は上杉景勝、佐竹義宣らへの抑えとして関東防衛のために残り、家康は東海道から進軍することとなりました。

 福島正則ら東軍は清洲城へと入り、そこから美濃へと侵攻。
 西軍方であった織田秀信が守る義浮上を落とします。

 遅れて江戸を進発した家康は美濃赤坂に着陣すると、西軍より三成家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登らが奇襲をかけ、対して東軍は中村一栄、有馬豊氏らが迎撃。
 この杭瀬川の戦いにおいて東軍は敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死します。

 そして美濃国関ヶ原において東西両軍は対峙し、一大決戦に及びます。
 これがいわゆる関ヶ原の戦いであり、当初は地の利を得ていた西軍有利であったものの、事前に調略を仕掛けていた小早川秀秋が西軍を裏切り、大谷吉継隊を急襲。
 これにより形成は逆転し、続けて脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らも寝返り、勇戦していた吉継隊もついには壊滅し、西軍は総崩れとなりました。

 その最中、西軍の島津義弘が決死の退却戦を挑み、家康本陣の寸前まで迫るような危うい場面もありましたが、ほぼ東軍の完勝にて関ヶ原の戦いは終結することとなります。

 戦後、三成は逃亡し、家康は三成の居城・佐和山城を陥落させて近江国に進出。
 ついには三成を捕縛。
 三成は小西行長や安国寺恵瓊らと共に、六条河原にて処刑となりました。

 大坂に入った家康は西軍に与した諸大名ををことごとく改易や減封、あるいは処刑し、召し上げた所領を東軍に与した諸将へと分配。
 家康自身も250万石から400万石へと加増し、一方で豊臣氏の直轄地であった太閤蔵入地を諸大名に論功行賞で分配したことで、豊臣氏は摂津国、河内国、和泉国といった3ヶ国65万石の一大名に転落。
 家康はこれにより、豊臣氏に代わって天下人としての地位を確立していくことになります。

江戸幕府を開く

 戦後、大坂城を出た家康は伏見城へと入り、1603年(慶長8年)、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。

 征夷大将軍となった家康でしたが、1605年(慶長10年)には将軍職を辞し、その職を嫡男・秀忠へと引き継がせ、以後将軍職は徳川家が世襲していく体制を確立させます。
 自身はその後大御所となり、江戸から駿府に移って大御所政治をするようになります。

 1607年(慶長12年)、秀吉による朝鮮出兵によって断絶していた李氏朝鮮との国交を回復。

 1609年(慶長14年)、オランダ使節と会見し、朱印状による公益と、平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可。

 1611年(慶長16年)、二条城にて豊臣秀頼と会見。
 秀頼はこれを拒絶するつもりでしたが、織田有楽斎を仲介とし、淀殿の説得もあって秀頼の上洛は実現し、両者の会見に至りました。
 これにより徳川が豊臣より優位であることが天下に知れ渡った、ともされているようです。

大坂の陣

大坂夏の陣
『大坂夏の陣図屏風』

方広寺鐘銘事件

 家康は江戸幕府による全国支配を確立したもの、それでもまた豊臣氏は徳川氏にとっての脅威となっていました。

 領国的には一大名に過ぎなくなったとはいえ、その地位は特別であり、徳川の家臣という立場でもなく、また西国の大名らはかつての秀吉恩顧の大名ばかりでした。

 また徳川政権もまだ磐石とはいえず、身内である将軍・秀忠とその弟である松平忠輝の仲が険悪であると同時に、忠輝の義父であった伊達政宗は天下への野望を捨てておらず、虎視眈々と機会を伺っている雰囲気があったといいます。

 当初の家康は、豊臣氏との共存を考えていたようでしたが、豊臣側が徐々に家康を警戒するようになり、多くの浪人を召抱えて軍備増強するなどの構えをみせ、幕府方もこれを警戒するようになります。

 このような流れの中で、結城秀康や加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政といった豊臣氏に縁のある大名が次々に死去。
 時がたつにつれて、豊臣氏は孤立していくこととなったのです。

 そして1614年(慶長19年)に、大坂の陣の端緒となった方広寺鐘銘事件が発生しました。

 これは豊臣氏が家康の勧めで方広寺を再建した際、大仏殿の開眼供養を行おうとし、、その折に梵鐘の銘文中に不適切な語があるとして供養を差し止めた事件で、銘文に使用された「国家安康」の文字が、家康の諱を避けずに不敬である、としたものでした。

 「国家安康」を家康の名を分けて呪詛する言葉とした、などとして非難したという説もありますが、後世の俗説であるとされています。

 この事件を受けて、豊臣氏は家老であった片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を派遣し、釈明。
 しかし家康は会見そのものを拒否し、文英清韓を拘束して且元を大坂へと追い返しました。

 且元は両家の間を取り持つために、秀頼の大坂城退去などを提案して妥協を図るものの、豊臣方はこれを拒否し、反対に且元を家康との内通容疑で大坂城から追放してしまいます。

 これにより家康は、豊臣方が浪人を集めて軍備増強を理由として、宣戦布告に至りました。

大坂冬の陣

 1614年(慶長19年)、家康は20万の大軍をもって大坂城を包囲。
 局地戦で勝利を重ねて包囲を狭めていくものの、真田丸の戦いにおいて大敗北を喫してしまいます。

 もっとも戦局を変えるほどの痛手ではなく、大砲による砲撃作戦を大坂城に対して実行し、淀殿らを心理的に追い詰め、徳川有利な条件で講和に持ち込むことに成功しました。

 この和睦の条件により、大坂城の堀が埋め立てられることとなったのですが、家康は条件に反して内堀まで埋め立ててしまい、大坂城は丸裸の無防備な状態に陥ってしまいます。

大坂夏の陣

 一方の豊臣方でも主戦派と穏健派で対立し、主戦派が内堀を掘り返す動きをみせました。

 これにより幕府方は、豊臣方が再軍備を進めているとし、大坂城に集った浪人の追放や移封を要求。
 豊臣方はこれを拒否し、再度戦端が開かれることとなりました。

 大坂城での籠城が不可能となった豊臣方は出撃するしかなく、樫井の戦い道明寺の戦い八尾若江の戦いなどで次々に敗北し、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相といった豊臣方の主だった将が次々に討死してしまいます。

 そして最終決戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、幕府軍は大軍でありながら散々に攻め込まれ、豊臣方の毛利勝永の突撃により、6万の幕府兵は4千の毛利勢に蹴散らされて四散し、さらに真田信繁(真田幸村)により家康本陣にまで突入された挙句、本陣の馬印も倒されて家康本人も自害を覚悟するほどまでに追い詰められ、逃げ回る羽目になるほど窮地を陥ることになりました。

 しかしやがて混乱から立ち直った幕府軍は次第に体勢を立て直し、兵力差により徐々に優勢となって信繁も戦死し、ついに大坂城は陥落。

 秀頼や淀殿を始め、大野治長といった側近らは自害して果て、豊臣家は滅亡しました。

家康の最期

 1615年(慶長20年)には禁中並公家諸法度17条を制定し、幕府と朝廷の関係を規定。

 また武家諸法度と一国一城令を出し、諸大名を統制していくこととなります。

 これにより徳川氏による全国支配が実現されて、家康はその後250年以上に渡って続く徳川政権の基礎を築き上げました。

 そして1616年(元和2年)、鷹狩りに出た先で倒れます。
 同年には太政大臣に任じられ、武家出身者としては史上四人目となりました。

 そして4月17日の午前10時頃、駿府城にて死去。享年75。

「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

 以上の2首を、辞世の句として詠んだと伝わっています。

 家康の死因としては、以前から鯛の天ぷらを食べて食中毒にあたった、という説が知られてきました。
 しかし家康が天ぷらを食べたのは1月のことで、死亡したのは4月であることから、天ぷらによる食中毒を死因にするには無理があることが分かってきています。

 そのため現在では、胃癌であったのではないか、という説が食中毒説に代わって主流になっているようです。

 ちなみに江戸城内において天ぷらを料理することが禁じられており、これは家康の死因となったために禁止されてる、といった説明がなされることがありますが、実際には天ぷらを料理していて火事を出しかけたことが原因で、禁止されるようになった、というのが本当のところのようです。

家康の人物像

 ・身長は約160cmまでであったとされているようです。

 ・家康はあらゆる武術に通じており、剣術や砲術、弓術や馬術、水術に至るまで一流であったとされています。

 ・『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』といった実学を好み、『源氏物語』の教授を受けたり、また幾何学や数学をも学ぶなど、家康の興味は幅広かったようです。

 ・また鷹狩りや薬作り、猿楽、囲碁、将棋、香道など、趣味も多岐に渡っていました。

 ・外国の文化にも興味を示し、南蛮胴や南蛮時計、コンパス、眼鏡、ビードロなをの舶来品などが好きであったようです。

 ・一方で京文化への興味は薄かったようで、舞などは舞わなかったようです。

 ・また当時流行していた茶の湯に関しても、信長や秀吉に比べて積極性はみられていません。ただ茶を飲むこと自体は好んでいたようです。

 ・敵であった武田信玄のことは尊敬していたようで、のちに武田を手本にした軍令などに改めています。

 ・家康は背が低く、醜男であった上に肥満体であったといわれています。

 ・基本的に寡黙であったようで、同時に慎重であったとされています。これは彼の人生が、父や祖父は家臣の裏切りによって殺害されており、自身も家臣の裏切りによって織田氏の人質となり、その後は今川氏の人質となり、独立後は家臣の本多正信に裏切られ、秀吉と対立するようになった頃には石川数正に裏切られるなどの苦労を経験しており、また配下の三河武士は忠義は高いものの頑固で融通が利かず、こういった扱いにくい家臣を統率していくために、家康は自然と寡黙となって慎重な行動をせざるを得なくなったと考えられます。そのため家臣曰く、家康は何を考えているのかわからない、といった評が残っているようです。

 ・家康は吝嗇として有名で、ふんどし色は汚れが目立たないからとう理由で薄黄色のものを使用したり、新しい服をあまり着なかったり、厩が壊れてもその方が馬が強くなるといってそのまま放置したりと、数多くの逸話がのこされています。ただこれは倹約であって吝嗇ではなく、必要な時には必要な財を投入することに躊躇わなかったようです。

 ・家康には影武者説が伝わっており、実は大坂夏の陣の際に真田信繁に討ち取られ、それによる混乱を避けるまで影武者が身代わりをしていたのではないか、という説も残っています。

 ・家康の父や祖父の死に刀匠であった村正の刀が関わっており、嫡男・信康の介錯に使われた刀も村正で、自身も村正作の槍を手にして指を傷つけており、以来、徳川家は村正を嫌悪するようになったとされています。

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徳川家(徳川将軍家)歴代当主

 第1代   徳川家康  1543年~1616年
 第2代   徳川秀忠  1579年~1632年
 第3代   徳川家光  1604年~1651年
 第4代   徳川家綱  1641年~1680年
 第5代   徳川綱吉  1646年~1709年
 第6代   徳川家宣  1662年~1712年
 第7代   徳川家継  1709年~1716年
 第8代   徳川吉宗  1684年~1751年
 第9代   徳川家重  1712年~1761年
 第10代  徳川家治  1737年~1786年
 第11代  徳川家斉  1773年~1841年
 第12代  徳川家慶  1793年~1853年
 第13代  徳川家定  1842年~1858年
 第14代  徳川家茂  1846年~1866年
 第15代  徳川慶喜  1837年~1913年
 第16代  徳川家達  1863年~1940年
 第17代  徳川家正  1884年~1963年
 第18代  徳川恒孝  1940年~

徳川家康 関係年表

 1542年 松平広忠の嫡男として誕生。
 1547年 織田氏の人質となる。
 1555年 元服。次郎三郎元信と名乗る。
     正室・築山殿を娶る。
     蔵人佐元康と改名。
 1558年 初陣。鈴木重辰を攻める。
 1560年 桶狭間の戦い。
 1562年 清洲同盟。
 1564年 三河一向一揆。
 1566年 従五位下三河守への叙任。
     徳川への改姓。
 1568年 駿河侵攻。
     今川氏滅亡。
 1570年 浜松城を築城。本拠とする。
     金ヶ崎の戦い。
     姉川の戦い。
 1572年 武田信玄による西上作戦。
     一言坂の戦い。
     二俣城の戦い。
     三方ヶ原の戦い。
 1573年 武田信玄死去。
 1574年 第一次高天神城の戦い。
 1575年 長篠の戦い。
 1579年 信康自刃事件。
     嫡男・信康、正室・築山殿、死去。
 1581年 第二次高天神城の戦い。
     甲州征伐。武田氏滅亡。
     本能寺の変。
     織田信長死去。
     伊賀越え。
 1582年 天正壬午の乱。
 1583年 賤ヶ岳の戦い。
 1584年 小牧・長久手の戦い。
 1585年 第一次上田合戦。
 1586年 秀吉の実妹・朝日姫を正室として迎える。
     家康上洛。秀吉に臣従。
     正三位に叙任。
 1587年 従二位・権大納言に叙任。
 1590年 小田原征伐。北条氏滅亡。
     関東へ移封。
 1591年 奥州仕置。
 1592年 文禄の役。
 1595年 秀次事件。
 1596年 内大臣に任命。
 1597年 慶長の役。
 1598年 五大老に任命。
     豊臣秀吉死去。
 1600年 関ヶ原の戦い。
 1603年 征夷大将軍に任命。
 1605年 将軍職を嫡男・秀忠に譲る。
 1607年 駿府にて大御所政治を行う。
     李氏朝鮮と国交回復。
 1609年 オランダ使節と会見。
     二条城の会見。
 1614年 方広寺鐘銘事件。
     大坂冬の陣。
 1615年 大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。
     禁中並公家諸法度17条の制定。
     武家諸法度、一国一城令の制定。
 1616年 家康死去。享年75。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
徳川家康  99  86  90  94

 さすがは天下統一を成し遂げた人物。
 もっとも低い能力が武勇の86と、反則的な強さを誇ります。
 三河武士や諸大名を纏め上げた統率ゆえに、99はさすが。