内藤昌豊 ~武田の副将格として評された、武略の将

内藤昌豊

丸に花菱 内藤昌豊とは戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の家臣です。
 武田信玄の弟である武田信繁と共に、武田の副将格とされ、「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と、同じ武田家臣であった山県昌景に評されたとされています。
 1575年(天正3年)の長篠の戦いにて戦死しました。

 内藤昌豊 (ないとう まさとよ)
 生年  1522年(大永2年)
 没年  1575年(天正3年5月21日)
 改名  工藤祐長→内藤昌豊(昌秀)
 別名  工藤源左衛門
 家紋  丸に花菱
 主君  武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:工藤虎豊
 兄弟  工藤長門守
 子   昌月 昌弘

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武田信玄家臣時代

 昌豊は1522年(大永2年)に、武田信虎の家臣であった工藤虎豊に次男として生まれた、と『武田三代軍記』によって伝わっています。

 1559年(永禄2年)に、初めて昌豊の名を史料の中に見ることができ、この頃には信玄の側近として活躍していたようです。

 1561年(永禄4)に起きた第4次川中島の戦いにおいて、上杉軍を挟撃するための別働隊の大将として活躍したといわれています。

 1566年(永禄9)までには信濃国の深志城城代となり、その後永禄13年から元亀元年までの間、三増峠の戦いにおいて戦死した浅利信種の後任として、箕輪城代となりました。
 これは長篠の戦いにて昌豊が戦死するまで務めることとなります。

 三増峠の戦いにおいては、小荷駄隊を率いて補給の任に当たっていたようです。

内藤姓

 昌豊はもともと工藤性でしたが、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承することとなり、内藤の姓を名乗りました。
 工藤家自体は昌豊の兄である昌祐が継いでいます。

長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 1573年(元亀4年)、武田信玄が死去。

 この後は信玄の子であった、武田勝頼に仕えることになります。

 1575年(天正3年5月21)、織田・徳川連合軍を相手に長篠の戦いが勃発。

 昌豊は原昌胤や山県昌景と共に左翼に配置され、織田本隊と戦ったとされています。

 この時に本多忠勝と戦ったと『本多家武功聞書』には記されていますが、詳しいことは分かっていません。

 結局この戦いは武田方の敗北となり、敗退する武田勢の中にあって馬場信春と共に戦場に踏み止まり、主君・勝頼を逃すために尽力。

 しかしついには徳川家臣であった朝比奈泰勝によって討ち取られたとされています。享年54。

人物像

 武田の将の中にあっても武略に長け、武田信繁と並ぶ将として評されています。

 また昌豊は信玄に従い、そのほとんどの戦争に従軍し、武功を挙げました。
 しかし信玄から感状をもらったことはなく、その理由として『甲陽軍鑑』によると、昌豊ほどの人物ならば常人に抜きん出た功があるのは当然のことである、と信玄は評して感状を出さなかったといいます。

 このことからも、昌豊が常日頃から高い評価を得ていたことがうかがえます。

 また昌豊自身も個人の手柄にこだわることは小さきことだとして、感状ももらえないことを気にした風もなく、信玄との信頼関係を示す逸話として知られています。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
武田信繁  82  74  85  83

 同じ副将として賞された武田信繁に似たような能力値。
 副官としては本当に優秀ですね。