真柄直隆 ~太郎太刀の使い手にして、朝倉家の豪傑

 真柄直隆とは戦国時代の武将であり、越前朝倉氏の家臣です。
 大太刀として知られる太郎太刀を振るい、弟や息子と共に姉川の戦いで奮戦したことで知られています。

 真柄直隆(まがら なおたか)
 生年  1536年(天文5年)
 没年  1570年(元亀元年)
 別名  十郎左衛門
 主君  朝倉義景
 兄弟  直澄
 子   隆基

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朝倉家の豪傑として

 直隆の真柄氏は真柄荘の国人であり、堀江氏と同じく独立性の高い国人衆であったとされています。
 そのため朝倉氏に対して臣従はしても、完全な家臣というわけではなかったようです。

 直隆は1536年(天文5年)に生まれたとされています。
 弟には真柄直澄、子には真柄隆基がおり、直隆も含めて誰もが猛将として知られていました。

 非常に武勇に優れていたようで、越前の刀匠であった千代鶴国安が鍛えたとされる五尺三寸(約175cm)もある大太刀である、通称・太郎太刀を愛刀として振るい、戦ったとされています。

 人の背丈ほどもある太刀を振り回すことのできた直隆は、自身の体格も立派であったようで、身長2mを越える背丈に、体重250kgという巨漢でした。

 『朝倉始末記』によると、足利義昭朝倉義景を頼って一乗谷を訪れた際には、その御前で大太刀を数十回と振り回したとされ、その豪傑ぶりを見せ付けたようです。

姉川の戦い

 1570年(元亀元年)、金ヶ崎の戦いで九死に一生を得た織田信長は、即座に朝倉・浅井両家に対して反撃にでます。

 そこで行われたのが世に言う姉川の戦いであり、直隆も直澄や隆基らと共に参戦しました。

 この戦いは朝倉・浅井連合軍と、織田・徳川連合軍との間に行われたのですが、このとき徳川家康の家臣として参戦していたのちの徳川四天王・本多忠勝が単騎にて朝倉軍に向かって突撃を敢行。

 これを迎え撃ったのが直隆で、豪傑と知られる直隆との一騎打ちにより、は忠勝はその勇名を馳せ、直隆はそれに一役買った形になったようです。

 しかし朝倉・浅井両軍は次第に打ち崩され、敗走を始めます。

 直隆は味方の撤退を助けるために、今度は直隆自身が単騎で徳川軍に突撃し、12段構えの陣を8段まで突き破り、無双して戦線を支える大奮闘を見せました。

 だがついには力尽き、向坂三兄弟との戦いで覚悟を決め、「この首を取って武功とせよ」と告げ、敵に自身の首を献上して果てたとされています。

 この時に直隆を討ち取った(子の隆基を討ち取ったとも)太刀は「真柄斬り」や「真柄斬兼元」、「青木兼元」と名づけられた刀匠・孫六兼元の最高傑作であり、名刀として現代においては1939年に重要美術品に認定されました。

 姉川の戦いでは直隆の他に直澄や隆基らも戦死しましたが、真柄一族はその後も存続していたようです。

 直隆が使用した太郎太刀は、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されています。
 また一説によると、熱田神宮に奉納されているのは弟・直澄の次郎太刀であり、直隆の太郎太刀は白山比咩神社にあるものがそうであるともいわれているようです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
真柄直隆  49  83  48  17

 武勇はさすがの83。
 朝倉家の名将・朝倉宗滴に迫る能力です。