「織田家」カテゴリーアーカイブ

織田信秀 ~織田信長躍進の礎を作り上げた、尾張の虎

織田瓜 織田信秀とは戦国時代の武将であり、戦国大名です。
 織田信長の父であり、また信長に劣らない知勇を兼ね備えた武将として知られ、のちの信長が飛躍するための礎を作り上げました。

 織田信秀(おだ のぶひで)
 生年  1511年(永正8年)
 没年  1552年(天文21年3月3日)
 別名  通称:三郎
     渾名:器用の仁 尾張の虎
 家紋  織田瓜
 主君  織田達勝⇒織田信友
 親   父:織田信定
     母:含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
 兄弟  信康 信光 信実 信次
     松平信定夫人(松平信定)室
     長栄寺殿(牧長義室)
     岩村殿(遠山景任室のち秋山虎繁室?)
     秋悦院殿(織田信安室)
 妻   正室:織田達勝の娘
     継室:土田御前
     側室:織田敏信の娘
        養徳院殿(池田政秀の娘)
     他
 子   息子:信広 信長 信行 信治
        信時 信与 秀孝 秀成
        信照 長益 長利 信包
     娘:お市の方(浅井長政のち柴田勝家室)
       お犬の方(佐治信方のち細川昭元室)
       犬山殿(織田信清室)
       乃夫殿(津田元秀室)
       くらの方(大橋重長室)
       苗木勘太郎室(苗木城主・遠山直廉室)
       丹羽氏勝継室(丹羽氏勝室)
       津田出雲守室(津田出雲守室)
       斎藤秀龍側室(斎藤秀龍室)
       信徳院(おとくの方、小林殿・小林城主牧長清室)
       小田井殿・栄輪院殿(織田信直(織田藤左衛門家)室)
       神保・稲葉夫人(神保氏張室のち稲葉貞通正室)
       飯尾尚清夫人(飯尾尚清室)
       小幡殿(織田信成室)

続きを読む 織田信秀 ~織田信長躍進の礎を作り上げた、尾張の虎

織田信長 ~本能寺の変に散った三英傑、戦国時代の風雲児

織田信長

織田瓜 織田信長とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、戦国大名です。
 豊臣秀吉や徳川家康と共に、三英傑の一人として知られています。
 尾張統一後、桶狭間の戦いを経て領土を拡大し、足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下に号令。
 さらには室町幕府を滅ぼし、畿内を中心とした織田政権を確立させて天下人となりました。
 しかし重臣であった明智光秀の謀反に遭い、本能寺にて自害することとなります。

 織田信長(おだ のぶなが)
 生年  1534年(天文3年5月12日)
 没年  1582年(天正10年6月2日)
 改名  吉法師(幼名)⇒信長
 別名  通称:三郎 上総守 上総介
     右大将 右府
     渾名:第六天魔王 大うつけ
 家紋  織田瓜
 主君  織田信友⇒斯波義銀⇒足利義昭
 親   父:織田信秀     母:土田御前
 兄弟  信広 信行 信包 信治
     信時 信与 秀孝 秀成
     信照 長益 長利
     お犬の方 お市の方
 妻   正室:鷺山殿(濃姫)(斎藤道三の娘)
     側室:生駒氏(生駒家宗の娘)
     側室:坂氏の女
     側室:於鍋の方(高畑源十郎の娘)
     側室:養観院(不明)
     他
 子   息子:信忠 信雄 信孝 秀勝
        信房 信秀 信高 信吉
        信貞 信好 信貞 信正
     娘:徳姫(五徳)(見星院)(松平信康室)
       相応院(蒲生氏郷室)
       秀子(筒井定次室)
       永姫(玉泉院)(前田利長室)
       報恩院(丹羽長重室)
       於振(水野忠胤室・佐治一成継室)
       源光院(万里小路充房室)
       月明院(徳大寺実久室)
       三の丸殿(豊臣秀吉側室・二条昭実後室)
       鶴姫(鷺の方)(中川秀政室)
       慈眼院(養女 北条氏直婚約者)
       さこの方(養女 二条昭実側室)
       細川玉子 (秀林院)(養女 明智光秀の娘、細川忠興正室)
       桂峯院(養女 織田信広の娘、丹羽長秀室)
       某(養女 斎藤道三の娘、畠山昭高正室)
       龍勝院(養女 遠山直廉の娘、武田勝頼室)
       足利夫人(養女 足利義昭側室)

尾張統一まで

弾正忠家

 織田信長は1534年(天文3年5月12日)に尾張の戦国大名であった織田信秀の嫡男として生まれました。
 幼名は吉法師。

 信長の出自である織田弾正忠家は、尾張の守護大名であった斯波氏の被官であり、守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣であり、また分家という立場であり、清洲三奉行家(因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家)の一家という家柄でした。

 弾正忠家について、その元々の系譜は定かではないものの、室町時代守護代でああった、織田伊勢守入道常松の家臣に織田弾正という人物がおり、その弾正なる人物が弾正忠家の祖であると推測されています。

 信長は父・信秀の次男であったものの、兄・織田信広は側室であったために家督相続権は無く、正室の母・土田御前を持つ信長が嫡男として育てられました。

尾張の大うつけ

 そのため僅か2歳にして、那古野城主になったとされています。

 幼少時より奇妙で奇抜な行動が目立ったとされ、そのため周囲からは尾張の大うつけと言われていました。

 この頃、日本に伝わった種子島銃に興味を持ったり、身分にはこだわることなく民と同じように、町の者と戯れていたともいわれています。

 信長はその豪胆さを早くから見せ付けていたといわれ、一応のところ主筋であった織田大和守家の本拠であった清洲城下に数騎で火を放つなどし、父・信秀すら寝耳に水といった行動をしました。

 またこの頃に、今川氏の人質となるはずだった竹千代(徳川家康)が、松平家臣・戸田康光の裏切りにより織田方へと引き渡された際、信長は幼少期に家康と過ごすことになり、後の強固な盟約関係を結ぶことに繋がったともいわれています。

正徳寺の会見

 1546年(天文15年)、古渡城にて元服し、上総介信長を称しました。

 1548年(天文17年)になると、これまで敵対していた美濃国の戦国大名・斉藤道三との和睦が成立し、その証として道三の娘であった濃姫との政略結婚が成立します。

 1549年(天文18年)には正徳寺において信長は、斉藤道三と会見。
 この時道三は、それまでうつけと呼ばれていた信長の器量を見抜いた、ともいわれています。

 1551年(天文20年)、父・信秀死去。
 これにより家督を継承しました。

 1553年(天文22年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。

 その死の原因は諸説あるものの、信長のうつけ振りを憂いた政秀が、自身の死をもって諌めたとされるのが、美談として有名であり、今に語り継がれています。

 それ以外にも信長との確執ではないかという説や、林秀貞、通具兄弟や柴田勝家との対立が原因ではないかなど、諸説あるようです。

 ともあれ信長は政秀の死を悲しみ、政秀寺を建立してその霊を弔ったといわれています。

 その後1554年(天文23年)には、村木砦の戦いにて今川軍に辛うじて勝利し、その苛烈な戦い振りから道三をして、

 「すさまじき男、隣には、いや成人にて侯よ」

 と言わしめたとされています。

織田氏当主へ

 当時の尾張国は今川氏の圧迫を受け、守護であった斯波氏の力が減衰しており、代わりに守護代を務めていた尾張大和守家当主・織田信友が実権を持っていました。

 信長の父・信秀はその信友に使える三奉行の一人でしかありませんでしたが、知勇をもって支配権を拡大したとされています。

 その信秀死後、信長が家督を相続し、これに大して信友は信長弟であった信行を支持し、信長と対立。

 1554年(天文23年)に信長謀殺計画を企てました。

 ところがこのことを、信友の傀儡となっていた守護の斯波義統が信長へと密告。
 これを知った信友は怒り、義統の嫡子であった斯波義銀が手勢を率いて川狩に出たところを狙い、義統を殺害してしまいます。

 これにより義銀が信長のもとに落ち延びてくることとなり、信長は叔父であった守山城主の織田信光と協力。
 織田信友を主君殺害の謀反人として討ち取り、織田大和守家は滅亡しました。

 信長はは那古野城から清洲城へと本拠を移すこととなり、織田氏庶流の生まれでしかなかった信長が、織田氏当主になるに至ります。

長良川の戦い

 1556年(弘治2年)、義父であった斉藤道三とその嫡男・斉藤義龍との間に長良川の合戦が勃発します。

 道三の娘婿であった信長も木曽川、飛騨川を舟で越えて大良の戸島、東蔵坊に陣を構えました。

 戦局は兵力的にも道三不利であり、長良川にて両者は激突するも、道三の討死という結果に終わります。

 信長も援軍を派遣していたものの、合戦には間に合いませんでした。

 長良川にて勝利した義龍軍は、援軍として来ていた信長の陣所にも兵を差し向け、大良河原での戦いに至ります。

 当初、道三の死を知らなかった信長でしたがやがてそれを知ると、自ら殿となり、退却を成功させたといわれています。

信行擁立

 美濃での情勢が混沌とする中、うつけな信長に対して聡明で知られた弟・信行を擁立する動きが活発化しました。

 林秀貞(通勝)、林通具、柴田勝家らは信行擁立により信長を廃そうとし、これに対して佐久間盛重、佐久間信盛、森可成らは信長に味方し、派閥に分かれて対立が生じます。

 またこのような事態になる前に、信長が弟の織田信時を伴って秀貞の城に出向いたことがあったのですが、この時通具は信長を捕縛して切腹させるよう進言するも、秀貞はこれを拒否し、二人を無事に帰したともいわれています。

 長良川の戦いにおいて斉藤道三が死去し、後ろ盾を失った信長に対してこれを好機とみた信行派は、同1556年(弘治2年)に挙兵。稲生の戦いが発生します。

 この戦いは信長勝利に終わり、末盛城に立て篭もった信行らは包囲されるも、母である土田御前の仲介によって、信行や柴田勝家は赦免されました。

 また同年、信長の庶兄であった織田信広も謀反を企て、美濃の斉藤義龍と結び、清洲城の簒奪を謀りましたが、信長は事前にこの情報を掴み、未遂となっています。
 信広は降伏し、赦免されました。

 しかし謀反は続き、一度失敗したにも関らず、織田信行は1557年(弘治3年)再び謀反を企てることになります。

 この時すでに信長に通じていた柴田勝家はこれを密告し、この事態に際して信長は病と称して信行を清洲城に誘き出した上で、これを殺害しました。
 信行を直接殺害したのは、河尻秀隆だったといわれています。

 また信長は同じ一族であった犬山城主の織田信清と協力し、織田大和守家の宿敵であり織田宗家であった守護代・織田伊勢守家と戦い、これを追放することに成功。

 さらには新たな尾張守護として擁立していた斯波義銀が信長追放を画策するも事前に発覚し、信長は義銀を尾張より追放しました。

 このような経緯を経て、信長は1559年(永禄2年)までに、尾張統一を果たし、その国主となりました。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い
『尾州桶狭間合戦』

今川義元の尾張侵攻

 1560年(永禄3年)、今川義元が尾張へと侵攻を開始しました。

 今川氏は駿河国、遠江国に三河国を支配しており、その今川氏の要する軍勢は2万とも4万とも号する大軍であったとされます。

 それに対し、織田方は僅か5,000という総兵力であり、防戦するも衆寡敵せず、織田方の砦は次々に陥落していくことになりました。

 追い詰められていた信長でしたが、1560年(永禄3年5月19日)、敦盛を舞うと出陣し、熱田神宮に参拝。
 善照寺砦にで4.000の兵を揃えると出撃し、今川軍の陣中へと強襲をかけ、敵の総大将たる今川義元を討ち取りました。

 これにより今川方は大混乱に陥り、駿河へと撤退するに至ったわけで、これが世にう桶狭間の戦いであったといわれています。

清洲同盟

 桶狭間の戦いで大敗を喫した今川氏は、その後三河の松平元康(徳川家康)の離反などに遭い、その勢力を弱めていきました。

 織田氏と松平氏は隣国でもあったため、これまで幾度も戦い、敵対関係にありました。しかし家康は今川氏に対抗する必要上、また信長は美濃の斉藤氏攻略のために、お互い利害が一致し、両者は迷惑を結びます。

 1562年(永禄5年)、織田氏と松平氏は清洲同盟を締結。
 これはお互いの背後を守るためのもので、同盟は信長が本能寺の変で横死するまで、もしくは小牧・長久手の戦いまで維持されることになります。

 1563年(永禄6年)、信長は本拠を小牧山城へと移し、本格的に美濃攻略に取り掛かることになりました。

天下布武

美濃攻略

 織田氏と斉藤氏は父・信秀の時に縁戚関係となっていましたが、斉藤道三がその子・義龍に敗れ死去した後は、敵対関係になっていました。

 そのためお互いに一進一退の攻防を繰り広げていたのですが、1561年(永禄4年)に斉藤義龍が急死し、その家督は子の斉藤龍興が継承することになります。

 これを機とみた信長は美濃に出兵し、森部の戦いに勝利すると、斉藤氏に対して有利に立つようになります。

 このことが斉藤家の中に内部分裂を生じさせ、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を占拠するなどといった反乱も勃発しました。

 信長は美濃の隣国である近江の浅井長政と同盟を結ぶことで、斉藤氏を牽制。

 この同盟に際して信長は、自身の妹であったお市を長政の正室として輿入れさせています。

 また美濃攻略の一方で、1565年(永禄8年)には滝川一益の援軍依頼を受けて、伊勢方面にも進出し、神戸具盛らとも抗争を繰り広げました。

 1566年(永禄9年)には加治田城主・佐藤忠能と加治田衆を味方にすることに成功し、中農を手に入れます。

 そして1567年(永禄10年)、美濃国主であった斉藤龍興を稲葉山城の戦いにて破り、伊勢の長島に敗走させて、美濃攻略を完成。
 信長は尾張国と美濃国を領する大名となりました。

 そしてこの時に、井ノ口を岐阜と改称しています。

天下布武の朱印

 美濃攻略を完遂した同1567年(永禄10年)、信長は沢彦から与えられた印文である天下布武の朱印を使用するようになり、これをもって天下統一を目指すようになったと考えられています。

 当時の天皇である正親町天皇は信長に対して古今無双の名将と褒めた上で、御料所の回復や誠仁親王の元服費用の拠出を求めたとされていますが、信長は考えておきます、と返答したに留めたとされています。

信長上洛

永禄の変

 1565年(永禄8年)、三好長逸、三好政康、岩成友通らいわゆる三好三人衆が、対立していた室町幕府将軍・足利義輝を暗殺するという大事件が発生。いわゆる永禄の変により、三好三人衆は第14代将軍として、足利義栄を擁立しました。

 暗殺された義輝には僧籍に入っていた一乗院覚慶(足利義昭)という弟がおり、義昭もまた暗殺されそうになります。
 しかし幕臣であった一色藤長や和田惟政らによって助け出され、奈良を脱出。近江国へと入り、同国の守護であった六角義賢の協力を得つつ、矢島を拠点として全国の諸大名に対し、三好討伐と自身の上洛に協力するよう要請しました。

 義昭は現状に対し、上杉謙信や武田信玄といった地方の諸大名は周辺諸国との対立のために動くことができないため、京に比較的近い大名を連合させることで上洛を果たそうと計画します。

 信長の尾張は京からほど近かったこともあり、義昭配下の和田惟政は尾張の信長の元を訪れて、上洛要請をしました。

 当時はまた美濃の斎藤龍興が健在であったため、信長は上洛要請に対して躊躇していましたが、義昭は龍興に対しても働きかけて織田氏と斉藤氏の停戦を求め、龍興はこれに応じます。

 これにより信長は美濃から北伊勢、南近江を経て上洛を目指すことになり、1566年(永禄9年)、信長は挙兵しました。

 ところがこの動きを察知していた三好三人衆は反撃に出、切り崩しの調略を行っていたようで、斎藤龍興が離反。
 上洛のための道を塞いだため。信長は断念して撤退したとされています。

 またこの調略は六角氏にも及んでいたようで、六角義賢も離反し、危機を悟った義昭は近江を脱出し、若狭を経て、越前の朝倉義景のもとに動座しました。

 しかし義景は義昭の度重なる上洛要請に対して動かず、そのため義昭は再び信長との交渉を始め、信長はこの要請を受諾。
 
 信長は和田惟政に村井貞勝や不破光治、島田秀満をつけて越前に派遣し、これにより義昭は一乗谷を出立して美濃へと向かい、岐阜の立政寺にて信長と対面することになりました。

甲斐武田氏

 甲斐の武田氏は、その当主・武田信玄の代に入ってより信濃国を得、美濃国と国境を接することになっていました。

 武田氏は東美濃に侵攻して織田氏と武田氏との間には紛争が発生しており、そのため信長は武田氏との同盟を模索します。

 まず信玄の四男であった武田勝頼に、信長の養女とした遠山夫人を娶らせることで、縁戚関係となって同盟が成立。
 ところが遠山夫人は勝頼の嫡男・武田信勝を出産すると同時に死去しており、信長はすぐにも嫡男・信忠と信玄の六女であった松姫との婚姻を持ちかけ、友好関係の持続を図り、周囲を固めました。

 また1569年(永禄12年)には将軍・足利義昭と共に、甲斐武田氏と越後上杉氏との和睦を仲介するなどしています。

再上洛戦

 足利義昭を迎え入れた信長は、これを大義名分として上洛を開始。

 途中、南近江の六角義賢、義治父子はこれに抵抗しましたが、織田軍の攻撃の前に観音寺城が落城。

 さらに大津まで進軍すると、三好軍も崩壊していくことになります。

 三好三人衆の一人、岩成友通が降伏し、さらには細川昭元、三好長逸らは芥川城を放棄。
 篠原長房も摂津越水城を放棄し、阿波へと逃亡。

 三好三人衆と対立していた松永久秀と三好義継は信長に臣従することとなり、池田勝正もまた降伏しました。

 上洛を果たした信長は足利義昭を第15代室町幕府将軍に擁立し、この褒章として義昭より管領、斯波氏の家督継承、または管領代や副将軍の地位などを勧められたものの、足利家の桐紋と斯波家と同等の礼遇のみを賜り、あとは遠慮したとされています。

本圀寺の変

 1569年(永禄12年)、京より信長とその主力である織田軍が美濃へと帰還すると、これを機とみなした三好三人衆と流浪していた斉藤龍興が共謀し、当時足利義昭が仮御所としていた六条本圀寺を襲撃するという、本圀寺の変が発生します。

 信長不在の隙を狙ったものでしたが、信長は即座に取って返し、僅か二日で援軍として駆けつけることになります。

 ただ信長の到着を待たずして、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興・池田勝正、荒木村重、浅井長政、明智光秀といった諸将の奮戦もあって、三好軍は敗退。

 この事件を契機にして信長は、防備の弱かった本圀寺から新たに二条城を築城することとなり、義昭の御所としました。

 信長は、三好軍と共に決起した高槻城の入江春景を攻め、春景は降伏するもこれを処刑し、代わって和田惟政を城に入れ、摂津国は池田勝正を筆頭として伊丹親興と和田惟政の三名に統治させることになります。

 また信長は堺に対し、2万貫の矢銭と服属を要求。
 しかし堺は三好三人衆を頼りとしてこれに抵抗するも、結果的に三好三人衆は信長に敗れ、2万貫の矢銭の支払いに応じざるを得なくなりました。

 信長は堺の代官職を務めてきた堺の商人・今井宗久の代官職を安堵し、これを自身の傘下に取り込んで堺の支配を始め、さらには松井友閑を堺政所として派遣し、その後津田宗及、千利休を加えて堺を直轄化していきます。

殿中御掟9ヶ条の掟書

 一方で信長は将軍・足利義昭の権力を制限するために、1569年(永禄12年)に殿中御掟9ヶ条の掟書を、翌1570年(永禄13年)には追加7ヶ条を発令。
 これを義昭に認めさせました。

 これで両者の関係が悪化したかといえばそうではなく、この時点ではまだお互いに利用し合う間柄であったと考えられているようです。

 この頃に正親町天皇より副将軍に、という意向が伝えられたものの、信長はこれを無視しています。

 その後、信長は木下秀吉に命じ、但馬国の山名祐豊を破って生野銀山を制圧し、祐豊は信長に降伏。

 また播磨の赤松政秀は信長に救援要請を行い、これに対して田勝正、別所安治が派遣され、浦上宗景を攻めます。

 この時、信長に内通していた宇喜多直家は反旗を翻すも、信長の派遣した軍は播磨国内で数箇所の城を落とすと撤退してしまい、逆に宗景は赤松政秀を攻めてこれを追い詰め、結果的に政秀は降伏。
 直家も謝罪して浦上氏のもとに帰参しることになります。

足利義昭との対立の発端

信長の伊勢侵攻

 伊勢では北畠氏が勢力を誇っており、これに対して信長は1568年(永禄11年)にまず神戸具盛と講和し、三男・信孝を神戸氏の養子として送り込みます。

 その上で北畠具教の次男・長野具藤を追放し、信長の弟である織田信包を長野氏当主としました。

大河内城の戦い

 神戸具盛や長野具藤を降して北伊勢八郡を手に入れた信長は、南伊勢へと次なる目標を定め、北畠氏と対立することになります。

 この頃の北畠氏当主は北畠具房であったものの、その実権は未だに隠居した前当主・北畠具教が握っていました。

 1569年(永禄12年)、滝川一益の調略により、源浄院主玄と柘植保重によって、具教の弟であり木造城主であった木造城主・木造具政が織田方に寝返ります。

 これに対し具教は木造城を包囲。

 しかし滝川、神戸氏、長野氏らの援軍もあって、木造城は持ち堪えることになります。

 そしてちょうどこの頃、上洛していた信長は美濃へと帰還し、7万とも号する大軍を編成して岐阜を立ち、木造城へと着陣します。

 この信長軍の動きに対して北畠軍は囲みを解き、要害であった大河内城へと入り、籠城の構えをみせました。
 織田軍7万に対し、北畠軍は8千であったともいわれています。

 織田軍は大河内城を包囲しこれを攻めるも、これを落とすことができず、信長は足利義昭に要請して和睦に持ち込むことになります。

 結果、信長次男であった織田信雄を具房の養嗣子にすることなどといった、和睦の条件が整えられることになったのですが、この際に信長と義昭との間に温度差があり、後の両者の対立の発端になったのではないか、とも考えられているようです。

 ちなみに北畠具教は1576年(天正4年)に、三瀬の変によって長野具藤らと共に北畠信意(織田信雄)らによって、殺害されることになります。

信長包囲網

金ヶ崎の戦い

 1570年(元亀元年)、再三に渡る上洛要請を無視し続けた越前の朝倉義景に対し、信長は朝倉討伐を決行します。

 これは浅井氏との間の盟約を無視するものであり、信長は盟友の徳川家康との連合軍をもって、越前へと侵攻しました。

 怒涛の勢いで進軍し、朝倉の諸城が次々に陥落していく中。金ヶ崎において浅井長政離反の報を受け、挟撃の危機に陥ることになります。

 これが世に言う金ヶ崎の退き口であり、戦国史上有名な織田信長の撤退戦となりました。

 この金ヶ崎の戦いにおいて、池田勝正、明智光秀、木下秀吉らが殿を務め、信長は真っ先に撤退し、京へと逃れることに成功します。

姉川の戦い

 すぐに体勢を立て直した信長は、家康と共に近江国にて朝倉・浅井連合軍と対峙。

 この姉川の戦いは「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」と『信長公記』に記されるほどの激戦となり、織田・徳川連合軍は合戦に勝利しました。

 敗北した浅井方の被害は甚大であり、浅井長政が最も信頼していたとされる重臣・遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直といった武将が戦死し、朝倉方でも豪傑で知られた真柄直隆真柄直澄真柄隆基らが討死しています。

 織田方でも坂井政尚の嫡子である尚恒が戦死しました。

野田城・福島城の戦い

石山合戦
『石山合戦図』

 勝利した信長は、この時挙兵した三好三人衆を討つべく、摂津へと出陣。

 しかしその隙をついて、石山本願寺が挙兵します。

 この野田城・福島城の戦いは、その後10年に渡って続く石山合戦の発端でもあり、第一次石山合戦とも言われています。

 信長はこの戦いに苦戦し、しかもその間に姉川の戦いで敗れた朝倉・浅井連合軍は建て直し、さらに延暦寺も加わって近江坂本に侵攻。

 この坂本の戦いは織田軍劣勢であり、信長の弟・織田信治と重臣・森可成を喪いました。

志賀の陣

 織田方の防衛線を突破した朝倉・浅井連合軍は大津、山科まで進撃し、京まであと一歩というところまで迫ります。

 この急報に京を喪うことを恐れた信長は摂津から撤退し、京へと撤退。

 この動きに朝倉・浅井連合軍は比叡山に立て篭もることになります。

 この時信長は比叡山延暦寺に対し、織田方につくならば織田領の荘園回復を約束するが、それができないのならば中立であった欲しいと言い、さらにもし対立するならば焼き討ちにすると通告しました。

 延暦寺は応えず、その支援をもって朝倉・浅井連合軍は延暦寺に立て篭もることになります。

 信長は比叡山を包囲するも、短期決戦は不可能となり、未だ活動を続ける三好三人衆の動きもあって長期戦の不利を悟り、朝倉義景へと決戦を促すも、義景はこれを黙殺しました。

 信長が比叡山に釘付けとなったことで、各地の反信長勢力は一気に挙兵。

 六角義賢が挙兵し、や願証寺の門徒が一向一揆を起こすなどし、信長を追い詰めていくことになります。

堅田の戦い

 堅田の猪飼昇貞や居初又次郎、馬場孫次郎が織田方に内通したことにより、信長は坂井政尚、安藤右衛門佐、桑原平兵衛らを堅田砦に入らせ、防備を固めさせます。

 しかしこの動きを察知した朝倉軍も迅速に行動し、朝倉景鏡や前波景当、一向宗門徒らが比叡山を下って堅田に攻め寄せ、坂井政尚は孤軍ながらも奮戦し、朝倉方の前波景当を討ち取るも、やがて織田軍は壊滅して坂井政尚は討死しました。

講和

 比叡山を包囲すること2ヶ月に及ぶも、朝倉・浅井軍は降伏せず、これ以上長引くことで各地で反信長勢力が増える可能性を警戒した信長は、朝廷や足利義昭に要請し、講和の画策することになります。

 対する朝倉義景も、豪雪により越前本国との連絡が断たれ、これ以上の長期戦には不安であったことから、朝廷と足利義昭の仲介により、講和に同意。

 織田軍は撤退し、朝倉・浅井軍も帰国の途につき、志賀の陣は終わりました。

比叡山焼き討ち

 1571年(元亀2年)、浅井長政配下であった磯野員昌が信長に降伏。

 姉川の戦いの際に横山城を攻略されたことで、員昌の居城であった佐和山城は浅井氏本拠の小谷城と分断されており、孤立していたことで員昌は降伏せざるを得なくなったといわれています。

 また信長は、伊勢で起こっていた長島一向一揆に対して出陣するも、これを攻略できず、柴田勝家が負傷し、氏家直元が討死するなど被害を出しました。

 志賀の陣は和睦により終結したものの、三好三人衆らは京奪還を狙っており、石山本願寺の顕如は、摂津、河内、近江、伊勢の門徒に号令を発しており、それに対処すべく信長は、横山城主であった木下秀吉に、越前に通じる海路・陸路を封鎖させ、石山本願寺や朝倉・浅井氏らの連絡を遮断します。

 信長は自身が包囲されているこの現状において、近江の安定と比叡山の無力化を現状打破の課題として捉えており、比叡山焼き討ちが決定されることになったといわれています。

武田信玄の西上作戦

三方ヶ原の戦い
『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』

 甲斐の武田氏と駿河の今川氏、相模の後北条氏は三国同盟を結び良好な関係を保っていましたが、今川義元の死後、徐々にその関係はきな臭くなり、信玄の嫡男・武田義信が死去したことで今川氏との姻戚関係は解消。信玄は駿河侵攻を開始して今川氏真を滅ぼし、駿河を併呑します。

 この駿河侵攻にあたって武田氏と徳川氏は当初協力していたものの、その後敵対関係となり、後北条氏と武田氏の関係も険悪なものになっていました。

 しかし1571年(元亀2年)、武田氏は後北条氏との関係を回復させ、甲相同盟を復活させると、徳川領への侵攻を開始します。

 この頃の織田氏と武田氏は良好でしたが、事前通告無しに徳川領への侵攻を開始するなど、その関係に綻びが見え始めてくることになります。

 1572年(元亀3年)、信長は石山本願寺と和睦。

 またこの頃、信長は朝倉・浅井連合軍との小競り合いを続けていましたが、徐々に戦局は織田方有利に傾いてきており、やがて朝倉方より前波吉継富田長繁、毛屋猪介、戸田与次郞らが寝返ってくることになります。

 またその後、信長は足利義昭に対し、17条からなる詰問文を送るなどして、両者の関係は悪化していきました。

 そんな中、甲斐武田氏の秋山虎繁が東美濃の岩村城へと侵攻。上村合戦が行われることになります。

 城主であった遠山景任は防戦するものの、折り悪く病死。

 この遠山景任の後家であった、信長の叔母にあたるおつやの方は、信長の五男であった織田勝長を養子として城主に据え、抵抗しました。

 それに対し、虎繁はおつやの方が虎繁に嫁ぐことを条件に降伏勧告し、結果、信長の援軍到着前に、岩村城は降伏してしまいます。

 一方、西上作戦を開始した武田信玄の侵攻を受けて、徳川領では一言坂の戦いにおいて、徳川軍は武田軍に敗退。
 続けて二俣城も降伏し、徳川家康は追い詰められていくことになります。

 そして三方ヶ原の戦いへと至り、徳川・織田連合軍は武田軍に大敗を喫し、信長より援軍として派遣した平手汎秀は討ち死にしました。

 1573年(元亀4年)、勢いにのった武田軍は、遠江国から三河国へと侵攻。野田城を攻略します。

 この武田氏の動きに呼応して、信長と対立を深めていた足利義昭が挙兵。
 信長はこれに対応するため、岐阜かた京へと兵を進めます。

 この時、幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限って、信長へとつきます。

 信長は上京を焼き討ちし、義昭との和睦を図るも義昭はこれを拒絶。正親町天皇の勅命により、両者は和睦に至りました。

 一方で武田軍の侵攻により窮地に陥っていた信長でしたが、折りしも武田信玄が病死し、これにより武田軍は甲斐へと撤退。信長は窮地を免れます。

室町幕府の滅亡

 信玄の死により武田軍の進軍が止まったことで、信長は息を吹き返し、再び挙兵して抵抗した足利義昭を破り、京より追放。

 これにより事実上、室町幕府は滅亡しました。

 信長は朝廷に奏上し、元号を元亀から天正に改めます。

 その後、第二次淀古城の戦いにて三好三人衆の一人、岩成友通を討伐しました。

越前朝倉氏の滅亡

 また北近江においては浅井氏家臣・阿閉貞征が内応したことを機に、3万の軍勢をもって出兵。浅井氏居城・小谷城を包囲します。

 この情勢に、浅井氏の盟友、朝倉氏は援軍を派遣。

 しかし援軍として到着した朝倉軍は信長の奇襲により撃破され、越前へと撤退します。
 その撤退の途上、刀根坂において織田軍はこれに追いつき、これを徹底的に打ち破りました。

 命からがら一乗谷へと逃れた朝倉義景は、重臣・朝倉景鏡の薦めもあり、景鏡の領地であった越前大野へと逃亡。

 しかしこの時、景鏡はすでに信長に通じており、義景が頼りとした平泉寺ともども義景を裏切ったため、義景は自刃して果てました。

 景鏡は義景の首級と共に降伏し、その首は長谷川宗仁によって京にて獄門とされたといわれています。

近江浅井氏の滅亡

 一方、近江の小谷城の戦いにおいては、羽柴秀吉によって小谷城の京極丸が陥落。浅井長政の父であった浅井久政や浅井福寿庵らが自刃します。

 そしてついには本丸も陥落し、浅井長政や赤尾清綱らも自刃して果てました。

 長政と久政の首も、京にて獄門にされ、逃亡していた長政の嫡男・万福丸も探し出して磔に処しています。

 長政のもとに嫁いでいた信長の妹・お市やその娘である茶々らは小谷落城の前に脱出しており、お市の生還を喜んだ信長は、弟の織田信包に引き取らせたといわれています。

伊勢長島の戦い

 信長は尾張、美濃、伊勢の軍勢を率いて伊勢長島に出陣。

 滝川一益らの活躍により、敵の諸城を落としていくものの、長島攻略のために大湊に桑名への出船を命じたものの従わず、いったん撤退することとなりました。

 しかしこの撤退の途中において、一揆軍による奇襲を受けてしまい、殿を務めた林通政が討死するという犠牲を出してしまいます。

三好氏の滅亡

 足利義昭の挙兵に呼応して反乱した三好義継に対し、信長は佐久間信盛に命じて河内国に討伐軍を派遣。

 これにより、信長の力を恐れた若江三人衆らは義継を裏切り、これにより義継は自害。三好氏は滅亡しました。

 その後、大和の松永久秀も信長に降伏しています。

長島一向一揆

長島一向一揆
『太平記長嶋合戦』

 1574年(天正2年)、朝倉氏滅亡後、織田領となっていた越前国において、越前一向一揆が発生。
 守護代となっていた桂田長俊が、一揆勢と朝倉氏旧臣・富田長繁によって殺害されてしまいます。

 これに呼応し、甲斐の武田勝頼が東美濃に侵攻。
 信長はこれを迎撃しようとしたものの、援軍到着前に明知城が落城し、信長はいったん撤退しました。

 またこの頃、信長は従三位参議に叙任されています。

 その後信長は、伊勢長島に対して水陸から完全に包囲し、兵糧攻めを実行しました。
 これは功を奏し、兵糧不足に陥った一揆勢は劣勢となり、長島城の門徒は船で大阪方面へと脱出を試みるも、そこを織田勢は銃撃を浴びせるなどして追撃。
 一揆勢も反撃し、信長の庶兄・織田信広や、弟・織田秀成などが討ち取られるなど、織田一族の中にも被害が出てしまいます。

 このような戦況に信長は、中江城、屋長島城に立て籠もる長島門徒2万人に対し、これを完全包囲して焼討ちし、全滅させました。

 また1575年(天正3年)、荒木村重が大和田城を占拠。
 これにより信長は10万の大軍をもって出陣し、高屋城の戦いが発生します。

 結果、高屋城、石山本願寺周辺を焼討ちにし、新堀城が落城。
 このため三好康長は降伏。
 信長は康長の降伏を受け入れ、その後康長や松井有閑の仲介により、石山本願寺と和睦が成立しました。

長篠の戦い

長篠の戦い
『長篠合戦図屏風』

 信長は織田氏に対する包囲網を一つ一つ打破していくと、甲斐の武田氏への反撃を強めていました。

 武田信玄死後、跡を継いだ武田勝頼は幾度も徳川領への侵攻を試みており、1575年(天正3年)、武田方より離反して徳川へと通じた奥平貞昌を討つべく、長篠城へと攻撃をかけます。

 しかし長篠城は要害であり、さらに奥平勢はこれを死守したため、武田軍は城の攻略に手間取り、その間に信長の援軍が岐阜を発ち、徳川軍と合流。

 総勢38,000人の織田・徳川連合軍は設楽原に陣を敷き、武田軍と決戦に及びました。

 これが世に言う長篠の戦いであり、火縄銃を用いた新たな戦術により武田方を圧倒し、大勝することになります。

 この年の7月に、正親町天皇は信長に官位を与えようとするも、信長はこれを受けることなく、代わりに家臣に官位、姓などを与えてくれるよう申し出ます。

 結果、松井友閑には宮内卿法印、武井夕庵には二位法印、明智光秀には惟任日向守、簗田広正には別喜右近、塙直政には原田備中守、丹羽長秀には惟住、荒木村重には摂津守、羽柴秀吉には筑前守の官位が与えられることになりました。

越前一向一揆

 朝倉氏を滅ぼし、いったん手中に収めた越前国でしたが、富田長繁らの扇動によって越前一向一揆が発生し、守護代を務めていた桂田長俊が殺害。

 しかし富田長繁もまた一揆勢と対立し、長繁も討死することとなり、越前国は越前一向一揆によって支配されることとなりました。

 そのため越前国には下間頼照が派遣。
 しかし一揆勢はまとまることなく、内部分裂が発生します。
 
 そのため信長は1575年(天正3年)、機をみて越前へと侵攻。
 これに対して一揆勢は効率的な迎撃ができず、1万を超える門徒が討伐されることになり、下間頼照や朝倉氏旧臣の朝倉景健らも同様の末路を辿りました。

 こうやって越前一向一揆は平定され、信長は越前国を回復。
 その上で柴田勝家に与えられることになります。

家督継承と安土城

 1575年(天正3年)、信長は権大納言に任じられ、さらには右近衛大将も兼任しました。

 この右近衛大将は征夷大将軍に匹敵するとされる官職であり、以後信長は上様と呼ばれるようになり、朝廷からも天下人であることを公認されたに等しくなったと考えられているようです。

 この年、信長は嫡男・信忠を正室であった濃姫の養子とした上で、美濃・尾張といった織田家の直轄領を譲ります。

 これにより織田氏当初は織田信忠が継ぐことになりましたが、引き続いて信長は織田政権を統括する立場にありました。

 翌1576年(天正4年)、信長は近江の琵琶湖岸に、安土城を築城し始めます。

 この城は1579年(天正7年)に完成し、イエズス会の宣教師によると、欧州の壮大な城にも比肩するものである、と母国への手紙に書き綴りました。

 安土城の完成により、信長はそれまでの居城であった岐阜城を信忠に譲り、自身は安土城に移ってこれを拠点に、天下統一を目指すことになります。

反信長の動きの活発化

天王寺砦の戦い

 1576年(天正4年)、丹波の波多野秀治が信長に対し、反旗を翻します。
 また石山本願寺も再挙兵し、信長打倒の動きをみせました。

 挙兵した石山本願寺に対し、信長は塙直政、荒木村重、明智光秀ら3万の軍勢を派遣。大阪にて砦を構築させます。

 しかし本願寺雑賀衆の伏兵にあった塙直政が戦死。

 織田軍は天王寺砦に立て篭もるも、気勢の上がった本願寺軍は砦を包囲します。

 窮した砦方は信長に救援を要請。
 信長は若江城に動員冷を出すも、集めることができたのは3,000人ほどであり、この軍勢を自ら率いた信長は本願寺勢15,000と対決し、激戦を展開しました。

 この戦いは信長自身も銃撃により負傷するほどのものでしたが、信長自らの出陣に織田軍の士気は上がり、砦の明智光秀軍と合流に成功。その勢いでもって本願寺勢を撃破しました。

第一次木津川口の戦い

 さらに織田軍は佐久間信盛を主将として、石山本願寺を水陸から包囲。兵糧攻めを行います。

 しかし石山本願寺の援軍として毛利水軍が現れ、この第一次木津川口の戦いで織田水軍は敗北。

 包囲を解かれた石山本願寺に物資が運び込まれることになります。

 一方で、信長と関東管領であった上杉謙信との関係が悪化し、謙信はそれまで本願寺と対立していたもののこれと和睦。謙信は信長と対立することになります。

信長の多方面同時戦略

紀州攻め

 1577年(天正5年)、信長は雑賀衆を討つべく紀州攻めを開始。

 しかし再び毛利水軍の援助、また北陸において上杉謙信が能登侵攻などを行ったため、雑賀衆とは和睦して撤退します。

 北陸戦線を任されていた柴田勝家は、加賀を越えて焼討ちなどを行いました。

信貴山城の戦い

 信長に臣従していた松永久秀は、再び信長に対して謀反し、挙兵。
 これに対し信長は、嫡男・信忠を総大将として軍勢を信貴山城に派遣。これを攻めて松永久秀を自刃に追い込みます。

丹波掌握

 また丹波国にて信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死し、これを好機とみた信長は丹波の諸城を次々に攻略。

 その上で、丹波守護であり管領家の細川京兆家当主・細川昭元の正室に、お犬の方を迎えさせることに成功して、丹波を手中に収めました。

上杉謙信の動向

 北陸戦線においては、上杉勢が能登及び加賀北部を攻略。更には加賀南部へと侵攻し、北陸においては上杉氏有利に展開します。

 しかし1578年(天正6年)、越後上杉氏当主・上杉謙信が急死。

 謙信には実子がおらず、また次の後継者を定めなかったこともあって、養子であった上杉景勝と上杉景虎との間で後継者騒動に発展し、いわゆる御館の乱が発生しました。

 内乱の発生を好機とみた信長は、斎藤利治を総大将に定め、飛騨より越中へと侵攻し、月岡野の戦いにおいて勝利し、優勢に立ちます。

 さらには北陸の柴田勝家軍が加賀、能登を攻略し、上杉氏は後退を余儀なくされました。

信長の軍団編成

 この頃には信長の勢力は拡大し、多方面を同時に攻略できるだけの兵力や財力を備えるようになっており、配下の武将に大名に匹敵する所領を与えることで軍団を編成し、統治と周辺の攻略をさせるようになります。

 当時の信長配下の軍団と編成、配置としては、美濃、尾張、飛騨に織田信忠、斎藤利治、姉小路頼綱を配置し、甲斐武田方面軍としては滝川一益及び織田信忠軍団を、本願寺方面軍としては佐久間信盛軍団を、北陸方面軍としては柴田勝家軍団を、近畿方面は明智光秀軍団を、山陰・山陽方面は羽柴秀吉軍団を、関東方面は滝川一益軍団を、四国方面は織田信孝、津田信澄、丹羽長秀、蜂屋頼隆軍団を配し、伊勢、伊賀方面は織田信雄、織田信包が配置され、東海道方面には信長の盟友・徳川家康という同盟国が存在していました。

中国侵攻

荒木村重謀反

 1578年(天正6年)、播磨の別所長治謀反により、三木合戦が発生します。

 同年7月、毛利軍は尼子再興軍の篭る上月城を攻撃。
 この際、信長の命により上月城は放置され、攻略されていまします。
 結果として尼子勝久や山中幸盛らは処刑されました。

 10月には摂津の荒木村重が有岡城にて謀反を起こし、毛利氏や石山本願寺と結んで抵抗。
 しかし村重の配下であった中川清秀や高山右近は、この謀反に加担しませんでした。

 また信長は九鬼嘉隆考案した鉄甲船を採用し、6隻を建造。
 これをもって毛利水軍と戦い、第二次木津川口の戦いで勝利します。

 前回の戦いでは織田軍が敗れたことで、石山本願寺への補給が維持されましたが、今回は織田方の勝利により包囲は崩せず、荒木村重と石山本願寺は毛利軍との連携を断たれ、孤立したことで劣勢に立たされます。

 そして1579年(天正7年)、信長は波多野秀治を降伏させて処刑し、その後荒木村重は妻子を残して逃亡。
 これにより有岡城は陥落し、荒木一族は処刑されました。

 また同年10月には毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属。
 これにより織田軍は毛利軍に対して優勢となりました。

松平信康切腹事件

 1579年(天正7年)、信長は盟友であった徳川家康の嫡男・松平信康に切腹を命じています。

 その理由として、信康の乱行、生母であり家康正室の築山殿の武田氏の内通などといわれています。

 この信長からの命に対し、徳川家では信長恭順派と反信長派に分かれることになりましたが、結果的に家康は築山殿を殺害し、さらには信康に切腹を命じることになりました。

 この事件については通説に対して異論や疑問点も多く、家康と信康父子の対立がまずあって、信康の正室は信長の娘であったことから信康の処断にあたり、信長の了解を得ただけではないか、ともいわれているようです。

第一次天正伊賀の乱

 一方、伊勢において丸山城構築を行っていた織田信雄でしたが、伊賀の国人にそれを妨害されたことに立腹し、独断で伊賀へと侵攻してしまいます。

 しかし結果は家老の柘植保重が植田光次に討ち取られ、敗退してしまいました。
 そのため信長は信雄を厳しく叱責したといわれ、謹慎を命じることになります。

家臣追放

 1580年(天正8年)、別所長治が切腹し、三木城は開城します。

 また関東の北条氏政よりの申し出により、後北条氏は織田氏の傘下となって従属。
 これにより信長の勢力は一気に東国まで広がります。

 またこれまで戦い続けてきた石山本願寺とは、正親町天皇の勅命により織田方有利な条件で和睦となり、大阪から退去することとなりました。

 この年の8月、譜代家臣であった佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り、石山本願寺との戦いにおける不手際を理由に、高野山への追放、もしくは討ち死に覚悟で働くかと迫り、佐久間父子は高野山への追放を選びます。

 また林秀貞と安藤守就といった古参の家臣に対しても、かつての謀反や一族が敵と内通したことなどを蒸し返し、追放しました。

 翌1581年(天正9年)には鳥取城を攻略し、因幡を制圧。

 さらには岩屋城を攻略して、淡路国も制圧しました。

 そして織田信雄を総大将として4万の軍勢により伊賀惣国一揆を滅ぼし、この第二次天正伊賀の乱をもって、伊賀国も織田氏が制圧することになります。

高野大衆一揆

 1581年(天正9年)、高野山は荒木村重残党を匿い、また足利義昭と通じて信長に対し、敵対行動をみせます。

 これに対して信長は使者を差し向けるも、高野山側はこの時派遣された使者十数人を全て殺害。

 『信長公記』には上記のように書かれている一方で『高野春秋』によると、信長は高野山と荒木村重残党との関係の有無を問う書状を送り、一揆に加わった高野聖などを捕縛し、牢に入れたり殺害したりしたため、高野山は根来寺と協力して高野大衆一揆を起こし、信長に反抗したとされています。

 ともあれこれに対し信長は、織田一族である織田信張を総大将とし、高野山攻めを決行。
 高野聖1,383名を捕え、処刑するに至りました。

 さらに堀秀政を援軍として派遣し、根来寺を襲撃。
 350余りを捕虜にしています。

 加えて筒井順慶の加勢をもって、高野山に対し総攻撃を開始。

 しかし高野山もこれに徹底抗戦し、戦闘は長期化。
 双方の被害も多数に及びます。

 1582年(天正10年)には甲斐武田氏を滅ぼすための甲州征伐が開始されることとなり、主力軍を振り分けることとなったため、高野山での戦闘はとりあえず回避されます。

 しかし同年中に武田氏が滅亡すると、高野山攻撃は総大将を織田信孝に代えて、再開。

 高野山側での被害が増える中、しかし頑強に抵抗して決着はつかないまま、本能寺の変を迎えることになります。

甲州征伐

天目山の戦い
『天目山勝頼討死図』

大侵攻へ

 1581年(天正9年)、北陸戦線において越中国を守っていた上杉氏家臣・河田長親が越中松倉城で病死。

 長親はこれまで織田方の柴田勝家、佐々成政らの越中侵攻に対して戦い続けてきましたが、長親の死を好機とみた織田軍の侵攻に遭い、越中の大半が織田の手中に落ちることになります。

 一方、遠江国においては高天神城奪回に成功し、武田氏を追い詰めることに成功。

 また紀州においては雑賀衆が内部分裂し、信長支持の鈴木孫一は反信長の土橋平次と争い、その勢力を衰えさせていました。

 このような情勢下、甲斐の武田勝頼は領国再建のために、越後上杉氏との同盟である甲越同盟の締結や新府城築城などを進め、さらには信長と和睦すべく甲江和与を探っていましたが、進展せずにいました。

武田一門衆の離反

 そして1582年(天正10年)、武田信玄の娘婿であり、一門衆であった木曾義昌が信長に離反。

 信長は武田氏への大侵攻のために大動員令を信忠に発令。

 駿河国からは徳川家康、相模からは北条氏直、飛騨からは金森金森長近、木曽から織田信忠らなど、多方面同時侵攻を開始します。

 主力であった織田信忠軍は河尻秀隆、森長可、毛利長秀らで構成された10万に及ぶ大軍であり、先に裏切った木曽軍の先導を受けて、武田領内に侵入しました。

 これに対し武田軍は次々に敗北して城を明け渡し、また駿河から侵攻した徳川家康は投降した穴山信君の先導により、甲斐へと侵入を果たします。

 武田軍はすでに組織的な行動ができなくなっており、各地で敗北し続けましたが、しかし唯一、信濃高遠城に篭った仁科盛信のみが徹底抗戦し、玉砕しました。

 武田勝頼は滝川一益により追い詰められ、勝頼のその子、武田信勝は自刃。
 武田氏は滅亡しました。

戦後処理と影響

 甲州征伐にあたり、先に離反した木曾義昌に対しては信濃2郡を安堵し、また穴山信君に対しても旧領を安堵しています。

 またこの戦いで功のあった滝川一益は関東管領となり、厩橋城に駐留。

 安堵された穴山領を除く甲斐国は、河尻秀隆の支配することことなり、北信濃4郡は森長可に、南信濃は毛利秀頼のものとなり、駿河国は徳川家康の支配下となります。

 武田氏の滅亡は東国の大名にも影響を与え、蘆名氏は信長へと使者を使わすと忠誠を誓い、また伊達氏や佐竹氏も同様の姿勢をみせました。

本能寺の変

本能寺の変
『本能寺焼討之図』

四国侵攻と北陸戦線

 信長は四国の長宗我部元親を攻略すべく、織田信孝や丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄の軍団派遣の準備を進めます。

 また北陸戦線においては、富山城を奪還してさらに魚津城の戦い勝利。

 上杉氏は新発田重家の謀反や北信より侵攻した森長可、上野からは滝川一益、北陸方面からは柴田勝家と全方位から攻められ、窮地に陥っていました。

明智光秀謀反

 そんな中、駿河国を加増されたことと、甲州征伐での戦勝祝いのために、徳川家康が安土城を訪れることになります。

 信長はこれを手厚くもてなし、その接待役として明智光秀が命じられました。

 俗説ではあるものの、この接待の際の光秀の不手際に対し信長は、小姓であった森蘭丸にその頭をはたかせた、とされています。

 ともあれ中国戦線で備中高松城攻めを行っていた羽柴秀吉からの援軍要請を受け、光秀は接待の任を解かれ、援軍に向かうよう命じられました。

 信長自身、中国遠征のために上洛し、本能寺に逗留。

 ところが秀吉への援軍として向かうはずだった明智光秀の軍は、突如京へと進軍し、信長のいる本能寺を襲撃。

 1582年(天正10年6月2日)、いわゆる本能寺の変が勃発し、信長は自ら槍をとって奮戦迎撃するも、多勢に無勢は覆らず、寺に自ら火を放ち、自害して果てました。享年49。

 信長の遺体は見つかっておらず、当時の本能寺は織田軍の補給基地であったため、火を放ったことで火薬に引火し、信長の遺体は爆散してしまったのではないか、と考えられています。

スポンサードリンク

織田信長の人物像

 ・朝倉義景、浅井久政、浅井長政の頭蓋骨を薄濃にしたとされる逸話が有名であり、信長の残虐性を表す逸話として知られる一方、
当時の首化粧の風習の観点からいえば、敵将への敬意の表れとする説もあります。そもそも『信長公記』には首、と書かれているだけで、頭蓋骨とは書かれておらず、尾ひれがついて髑髏を盃にした、という話になっている可能性もあるようです。

・身内には厳しかったとされ、弟の信行や叔母であるおつやの方を処刑しています。しかし一方で、反乱を起こした兄・信広は赦免し、その後重用したり、信行も一度目の謀反の際にはこれを赦免していいるなどし、また長島一向一揆の際に身内が討死し、徹底的にこれに対して報復するなどしており、身内に手厚いともいえます。

・朝倉攻めの際に盟約を破ったとされていますが、あくまで浅井氏と結んだ盟約であり、朝倉氏と直接結んだ盟約ではなく、またそれ以外の同盟者に対して信長から約定を破ったことは一度も無いとされています。

・自信家であったとされる一方、世間の評判を気にしていたともいわれています。

・家臣らに輿入れさせた自身の娘は、信長死後も大切にされており、娘を大事にしてくれそうな婿を選ぶ目に長けていたようで、甘い父親である、ともいわれているようです。また信長に関する記録の中には名の知れた女性が多く、当時は女性に関する記録が少なかったことを踏まえれば、女性を重視していたのでは、という推測もあるようです。

・羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁するなど、家庭内での妻の役割を軽視しない発言が残されています。

・徳川家康に対しては最大限に気を遣っていたようで、三方ヶ原の戦いで家康が敗北した際、佐久間信盛に対して家臣に討死を出すことなく撤退したことを非難しており、また第一次高天神城の戦いで援軍が間に合わずにこれを奪われた際には、二人がかりでどうにか持ち上げられる黄金を送り、謝罪したともいわれています。また甲州征伐後の家康が安土城を訪れた際は、巨費を投じてこれを歓待しています。

・荒木村重が離反し、その説得に向かった黒田孝高(黒田官兵衛)が戻らず、その主君であった小寺政職が離反したことで、信長は孝高が裏切ったと考え、その息子であった黒田長政の処刑を命じたものの、後で孝高が監禁されていたことを知ると、官兵衛に合わせる顔が無いと言って、深く恥じ入ったとされています。この時長政は竹中重治(竹中半兵衛)に匿われており、それを知った信長はひどく喜び、重治の命令違反を不問にするなど、自身の間違いは潔く認めて反省する一面もあったとされています。

・生まれた時から歯が生えていたとされ、癇が強く、乳母の乳首を噛み切ったという逸話が残されています。

・観内という茶坊主の不手際に対し、これを手打ちにした際の刀の切れ味から、圧切長谷部という名前がつけられたとされています。

・杉谷善住坊という鉄砲の名手に暗殺されかかった際、信長はこれを捕え、首から下を生き埋めにした上で、切れ味の悪い竹ののこぎりによって、時間をかけて処刑したとされています。

・鷹狩りが趣味であり、当初敵対していた近衛前久とは趣味が一致したこともあり、仲が良かったとされています。

・かつて桶狭間で討ち果たした今川義元の子、今川氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったことがあります。

・南蛮渡来の品を好んだとされています。

・アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示し、これを譲り受け、弥助と名付けて側近にしたとされています。信長は弥助を気に入り、城主にしようと考えていましたが、本能寺の変により実現することはありませんでした。

・地球(世界)が丸い物体でできていることに対し理解を示したとされています。

・囲碁好きであり、名人という言葉は信長発祥とされています。また本能寺の変前夜に、本因坊算砂が大局を披露した際に三コウが出来、その後明智光秀に討たれたことから、三コウは不吉である、とされたそうです。

・幸若舞『敦盛』の一節である「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を稟け、滅せぬ物の有る可き乎」をよく舞っていたとされます。

スポンサードリンク

織田信長 関係年表

 1534年 織田信秀の嫡男として誕生。
 1546年 元服。上総介信長と称する。
 1548年 濃姫を正室に迎える。
 1549年 信長は正徳寺で斉藤道三と会見
 1551年 父・信秀死去。
     家督を相続する。
 1553年 平手政秀自害。
 1554年 村木砦の戦い。
     織田氏当主となる。
 1556年 長良川の戦い。
     義父・斉藤道三死去。
     稲生の戦い。
 1557年 織田信行謀反。
     信行謀殺。
     浮野の戦い。
 1559年 尾張国主となる。
     上洛。足利義輝に謁見。
 1560年 桶狭間の戦い。
     今川義元死去。
 1561年 斉藤義龍死去。
 1562年 清洲同盟締結。
 1563年 小牧山城に本拠を移す。
 1564年 浅井長政と同盟。
     浅井家に妹・お市を輿入れ。
 1565年 永禄の変。
     足利義輝死去。
 1566年 中濃攻略戦。
 1567年 稲葉山城の戦い。
     斉藤氏滅亡。
     岐阜に改称。
     天下布武の朱印の使用開始。
 1568年 上洛開始。
     観音寺城の戦い。
 1569年 本圀寺の変。
     大河内城の戦い。
 1570年 殿中御掟の発令。
     金ヶ崎の戦い。
     姉川の戦い。
     野田城・福島城の戦い。
     志賀の陣。
     長島一向一揆発生。
     朝倉氏と和睦。
 1571年 比叡山焼き討ち。
 1572年 三好義継、松永久秀謀反。
     嫡男・信忠初陣。
     上村合戦。
     の三方ヶ原の戦い。
 1573年 武田信玄死去。
     第二次淀古城の戦い。
     一乗谷城の戦い。
     朝倉氏滅亡。
     小谷城の戦い。
     浅井氏滅亡。
     三好氏滅亡。
 1574年 越前一向一揆発生。
     岩村城の戦い。
     従三位参議に叙任。
     長島一向一揆制圧。
 1575年 高屋城の戦い。
     長篠の戦い。
     絹衣相論。
     越前一向一揆制圧。
     権大納言に任命。
     右近衛大将に任命。
     信忠に家督譲渡。
 1576年 安土城築城開始。
     天王寺砦の戦い。
     第一次木津川口の戦い。
 1577年 紀州攻め。
     信貴山城の戦い。   
     従二位・右大臣に昇進。
 1578年 上杉謙信死去。
     御館の乱。
     月岡野の戦い。
     三木合戦。
     上月城の戦い。
     有岡城の戦い。
     第二次木津川口の戦い。
     第一次天正伊賀の乱。
 1579年 松平信康自刃事件。
     安土城完成。
 1581年 第二次天正伊賀の乱。
     京都御馬揃え。
     高野山包囲。
 1582年 甲州征伐。
     武田氏滅亡。
     本能寺の変。
     信長死去。享年49。

スポンサードリンク

補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
織田信長  99  87  94  100

 さすが主人公というべきか、とんでもない能力ですね。
 隙が全く無し。
 これに対抗できそうな人物といえば、他の三英傑や、武田信玄といったところでしょうか。
 何にしてもお強いです。

織田長益 ~茶道有楽流の創始者、織田有楽斎

織田長益

織田瓜 織田信長の弟であり、千利休に茶道を学び、利休十哲の一人として知られています。
 本名は織田長益といいますが、その名よりも織田有楽や織田有楽斎といった名前の方が、現在ではよく耳にする機会が多く、 武将というよりは茶人として有名な人物です。

 生年  1547年(天文16年)
 没年  1622年(元和7年)
 改名  長益⇒有楽斎如庵
       (うらくさいじょあん)
 別名  有楽 有楽斎
 主君  織田信忠⇒織田信雄
     ⇒豊臣秀吉⇒豊臣秀頼
     ⇒徳川家康⇒徳川秀忠
 親   父:織田信秀
 兄弟  信広 信長 信勝 信包
     信治 信時 信興 秀孝
     秀成 信照 長利
 妻   正室:清(平手政秀娘)
 子   長孝 頼長 俊長 長政
     尚長 宥諌 松平忠頼正室
     湯浅直勝室 永福院殿

続きを読む 織田長益 ~茶道有楽流の創始者、織田有楽斎