跡部勝資 ~甲斐武田氏衰退の原因となった奸臣か

跡部勝資

 跡部勝資とは戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、甲斐武田氏家臣です。
 甲州征伐の際には主君・武田勝頼と共に、武田氏滅亡と運命を共にしました。
 長坂光堅と共に、武田氏が滅亡に至る原因となった家臣の一人ともいわれています。

 跡部勝資 (あとべ かつすけ)
 生年  不詳
 没年  1582年(天正10年3月11日)
 改名  又八朗⇒勝資
 別名  伊奈勝頼 通称:四郎
 主君  武田信玄⇒武田勝頼
 親   父:跡部信秋
 兄弟  良保
 子   和田信業 昌勝
     朝比奈信良室 依田信蕃室

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跡部氏

 勝資の出自である跡部氏は、信濃国守護・小笠原氏の庶流であり、信濃国跡部郷に発する一族です。

 1416年(応永23年)に起きた上杉禅秀の乱により、甲斐守護であった武田信満が滅亡。

 そのため室町幕府は、出家していた武田信元を甲斐守護に任じ、その支援を隣国であった小笠原氏に命じました。
 その際に、信濃守護であった小笠原政康は、守護代として跡部氏を甲斐へと派遣。

 このような経緯を経て、跡部氏は甲斐に土着することとなります。

 しかし1465年(寛正6年)、甲斐守護であった武田信昌は跡部景家を滅ぼして、跡部氏は排斥されることとなります。

 勝資の出自は守護代であった跡部氏に遡るとされていますが、その正確な系譜は伝わっていないようです。

来歴

天目山の戦い
『天目山勝頼討死図』

 跡部勝資の生年は分かっていません。

 甲斐の戦国大名・武田信玄は外征の結果、その領国を拡大。
 それに伴って有力家臣は各地に赴任し、信玄の周囲には常駐する家臣が少なくなっていました。

 それにより信玄の側近として、有力家臣の子弟が近侍するようになり、勝資もまた側近の一人として、山県昌景や土屋昌続、原昌胤らと共にその名を残しています。

 勝資は300騎持ちの侍大将であったようで、山県昌景や高坂昌信と並ぶものでした。

 1549年(天文18年)の武田信玄による信濃侵攻において、望月氏や大井氏などを服属。
 この時に大井信常を大井氏の名代に命じる使者として、「跡又」なる人物が派遣されており、これが勝資であると考えられているようです。

 1567年(永禄10)に起きた義信事件に際しては、下之郷起請文において奉行を務めていたようです。

 また信玄の死後、武田勝頼が家督を継いだ後は外交においても活躍していたようで、上杉氏との甲越同盟、佐竹氏との甲佐同盟などの取次ぎを務めました。

 1582年(天正10年)、織田信長による甲州征伐が開始されると、武田氏は組織だった抵抗をすることも敵わず追い込まれ、ついに天目山に追い詰められた主君・武田勝頼は自害。

 勝頼に随行した家臣である長坂光堅、土屋昌恒・秋山源三郎兄弟、秋山紀伊守、小宮山友晴、小原下野守・継忠兄弟、大熊朝秀らは討死し、勝資もまた殉死(または諏訪防衛戦にて戦死か)しました。

跡部勝資の人物像

 武田氏の滅亡に際し、『甲陽軍鑑』では長坂光堅と共に勝資は奸臣として評され、滅亡の原因になったとされています。

 武田氏衰亡の発端となった長篠の戦いにおいて、重鎮達が撤退を進言するなか主戦を主張し、結果的に大敗を喫したことも、そういわれる要因の一つのようです。

 また1578年(天正6年)に越後上杉氏で起きた家督相続争いである御館の乱では、長坂光堅と共に上杉景勝から賄賂を受け取った、とも『甲陽軍鑑』には記載されています。

 また『三河物語』には、武田氏滅亡の際に勝頼を見捨てて逃亡した、という記述がありますが、信憑性は無いようです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
跡部勝資  23  35  58  75

 長篠の戦いでの敗戦の原因とされているせいか、統率やら武略は低い能力になっています。
 一方で外交では名を残したこともあってか、政治は高め。
 武田滅亡の原因となった奸臣やら佞臣やらと後世には伝わっていますが、実際のところはどうだったんでしょうね。
 ともあれ、同じ奸臣とされている長坂光堅に比べると、まだ使える能力です。