雨森清貞 ~海赤雨三将と称された近江浅井氏の臣、雨森弥兵衛

 雨森清貞とは戦国時代の武将であり、近江浅井氏の家臣です。
 同じく浅井氏の家臣であった、海北綱親赤尾清綱らと共に、その頭文字をとって「海赤雨三将」や「浅井三将」と呼ばれていました。
 また雨森弥兵衛の名が、通称としてよく知られています。

 雨森清貞(あめのもり きよさだ)
 生年  不明
 没年  不明
 別名  弥兵衛
 主君  浅井久政浅井長政

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雨森清貞の事跡

 清貞の生年や没年は分かっていません。

 戦国時代、北近江を支配していた浅井氏の家臣として、浅井久政の代から仕えていたとされ、近江国伊香郡の雨森城主を務めていたとされます。

 浅井氏にあって、また国政や合戦などで活躍していた人物であったようですが、清貞についての史料は乏しく、その事跡はほとんど不明なままです。

雨森氏について

 清貞が仕えた浅井氏は、浅井長政の代に朝倉氏と織田氏の対立に端を発した抗争に朝倉氏側として参戦し、数年間に渡って戦うことになりました。

 1570年(元亀元年)に勃発した姉川の戦いにおいては、清貞と同じ雨森一族であった雨森清良が討死。
 家督はその弟であった雨森清次が継承したとされています。

 1573年(天正元年)には、浅井氏が小谷城の戦いを最後に滅亡。
 雨森氏は同じ浅井氏家臣であった阿閉貞征(織田氏に内応して浅井氏滅亡の遠因となった人物)について織田氏に降ったものの、1582年(天正10年6月2日)に本能寺の変が起こり、織田氏当主であった織田信長は横死。

 阿閉貞征は謀反した明智光秀につきましたが、同年(天正10年6月13日)に山崎戦いにおいて明智氏が滅ぶと阿閉氏も共に滅び、雨森清次は蟄居したといわれています。

 その後、清次の子であった雨森清広は、江戸時代になると松江藩に仕えました。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
雨森弥兵衛  66  55  69  75

 能力的には赤尾清綱に似たりよったりの能力。
 文武ともにバランスがとれていますが、どちからというと文官向きですね。