甘利虎泰 ~荻原常陸介に劣らぬ剛の武者、武田四天王

割菱  甘利虎泰とは、戦国時代の武将であり、甲斐武田氏の譜代家臣です。
 後に武田二十四将の一人として数えられ、また武田信虎時代の武田四天王の一人ともされています。

 主君・武田信玄が信濃小県郡に侵攻した際に村上義清と戦った上田原の戦いにおいて、戦死しました。

 甘利虎泰 (あまり とらやす)
 生年  1498年(明応7年)?
 没年  1548年(天文17年3月23日)
 別名  通称:九衛門
 家紋  割菱
 主君  武田信虎⇒武田信玄
 親   父:甘利宗信
 妻   善春
 子   信益 信忠(昌忠) 信康
     女(安中景繁室)
     女(坂西左衛門室)
     女(保科正則室)
     女(鎮目惟真室)

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甘利氏

 虎泰 の甘利氏は武田氏の庶流であり、甲斐源氏である一条氏の流れをくんでいます。

 甲斐国巨摩郡甘利郷、現在の山梨県韮崎市旭町付近を領していた一族でした。

 現代に続く子孫として、大臣などをを歴任した甘利明がいます。

来歴

 生年ははっきりしていないものの、1498年(明応7年)ではないか、とされているようです。

 虎泰は板垣信方飯富虎昌、原虎胤といった武将らと共に、武田信虎時代から武田氏に仕えました。

 のちに主君であった信虎の嫡男・武田晴信(信玄)が、信虎を追放した際にはその主導的焼割を果たし、信玄時代の宿老となって「両職」と呼ばれる最高職位を務めたとされています。

 しかし信虎時代からの来歴については、史料に多くは残っていないようです。

 たとえば1538年(天文7年)の韮崎の戦いの二番合戦にて手柄を挙げたとか、1542年(天文11年)の瀬沢の戦いでも奮戦したと、『軍鑑』や『武田三代軍略』といった軍記物に記されている一方、これらの合戦が確実に存在したという確かな史料は無く、事実であるかどうかは疑いの余地があるとされています。

 ちなみにこの瀬沢の戦いにおいて、長男の甘利信益が戦死したことになっています。

 『甲陽軍鑑』によると、虎泰は「荻原常陸介に劣らぬ剛の武者」として評されています。
 荻原常陸介とは荻原昌勝のことであり、信虎に弓術を教え、その軍師であったとされる人物です。

 武田信玄の軍師として知られる山本勘助も、虎泰の采配ぶりに対し、感嘆したとされています。

小田井原の戦い

 1547年(天文16年)、虎泰は信濃佐久郡の志賀城(長野県佐久市)攻めに参加。

 この時、関東管領であった上杉憲政が援軍を派遣し、これを迎撃するために信玄は虎泰と板垣信方を派遣しました。

 この時、関東管領軍と戦ったのが小田井原の戦いであり、虎泰ら率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破。
 敵将14、5人に、兵3000を討ち取るという大戦果を挙げたとされています。

上田原の戦い

 1548年(天文17年2月14日)、武田信玄と北信濃の村上義清との間に上田原の戦いが行われました。

 この戦いはそれまで連戦連勝を重ねてきた武田信玄が初めて大敗を喫した戦であり、多くの重臣を失うことになった手痛いものだったとされています。

 緒戦は先陣の板垣信方率いる板垣勢が村上勢を撃破し、勝利します。
 しかし勝ちに驕った信方が敵前で首実検を始めると、村上勢はその油断をついて反撃し、板垣勢は大混乱となって信方はその混乱の中で討死。

 この板垣勢が崩れたことにより、勢いづいた村上勢は猛攻し、後続の武田軍は総崩れとなり、大敗北を喫しました。

 これにより板垣信方や才間河内守、初鹿伝右衛門といった武田方の武将らと共に、虎泰も討死したとされています。

虎泰の子孫

 虎泰の死去後、その家督は甘利信忠が継ぎました。

 しかし信忠は1567年(永禄10年)に死去。

 信忠の子・信頼は幼少であったことから、信忠の弟であった信康らが補佐したとされています。

 その信康も1575年(天正3年)の長篠の戦いおいて戦死しました。

 そして武田氏が滅亡した1582年(天正10年)には、「甘利左衛門尉」なる人物が武田から離反しており、これが甘利信頼であったのではないかと考えられているようですが、その後の動向は不明となっているようです。

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補足だか蛇足だか

信長の野望 創造 戦国立志伝より、能力値

  統率 武勇 知略 政治
甘利虎泰  83  82  67  64

 同じく宿老であった板垣信方と、ちょうど反対で戦争向きの能力。
 前線の城代に向いていますね。